「文仁親王妃紀子」の版間の差分
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+ | [[秋篠宮家]]の長女・[[眞子さま]]と[[小室圭]]さんとのご結婚が延期となった。その背景には、小室家のトラブルがあったともいわれている。母・佳代さんと霊能者との付き合い、佳代さんと元婚約者との間の400万円金銭トラブルなどが報じられている。 | ||
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+ | 「世間は祝福ムードに包まれましたが、ひとり大きなプレッシャーを感じていたのが(母の)紀子さまでした。眞子さまは、将来国民の前に立って公務を担わなければいけない女性皇族という存在ですから、しっかりと育て上げなければならないという責任感を強く抱かれたようでした」(皇室ジャーナリスト) | ||
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+ | 紀子さまと秋篠宮さまの結婚に「一悶着」あったことも影響した。 | ||
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+ | 「[[学習院大学]]の共同住宅で暮らされていた『3LDKのプリンセス』であった紀子さまには、格式や家柄を重視する皇室内の一部から“お相手としていかがなものか…”と囁かれました。加えて、秋篠宮ご夫妻の婚約が内定したのは、[[昭和天皇]]の喪が明ける前の[[1989年]]9月。それ自体も異例のことでしたが、当時、皇太子さまはまだご結婚前でした。暗黙の了解である『長幼の序』という考え方からも外れたものでした」(ベテラン皇室記者) | ||
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+ | もし、子育てに落ち度があれば、「やっぱり…」と後ろ指を指されることにもなりかねない。ご結婚後、紀子さまが美智子さまのもとを頻繁に訪ね、皇族としての心構えから立ち居振る舞いまで丁寧に教えを請われていたのは、不安を打ち消したいという葛藤からだったのだろう。紀子さまの、眞子さまへの接し方は自然と厳しいものとなっていった。 | ||
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+ | 「紀子さまは“私がしっかりしなければ”というお気持ちを強くもたれていました。眞子さまには常日頃から、“[[皇族]]としての自覚を持って行動するように”と口を酸っぱくして言われていました。言葉遣いや立ち居振る舞いはもちろんのこと、学習院初等科時代、眞子さまが花壇の縁のブロックの上を歩こうものならすぐに厳しく注意。でも、おふざけするのが普通の年頃でしたからね。周囲は“眞子さまはあんなにお利口さんなのに、紀子さまは厳しいわね”と漏らしていたほどです」(学習院関係者) | ||
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+ | 「長らく皇室に男子が誕生しない中にあって、悠仁さまが生まれたことは、皇統の存続という面において大きな意味を持ちました。さらに、陛下の孫世代の男子は悠仁さまただお1人。将来皇位を継承するのが確実なことが、より紀子さまのプレッシャーを大きくしたようでした」(前出・ベテラン皇室記者) | ||
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+ | かつての日本の家庭では、家督を継ぐ長男を中心に家庭が回っていくことはよくあった話だ。まして、皇位継承権をもつ悠仁さまが誕生された秋篠宮家において、その傾向が強く表出することは無理からぬ話だった。悠仁さまの誕生は、将来、眞子さまや佳子さまが「天皇の姉」になることを意味していた。 | ||
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+ | 「眞子さまだけでなく、佳子さまにもより厳しくされたようです。あるお身内だけの食事会のとき、[[佳子さま]]が秋篠宮さまのことを“お父さま”と呼んだことがあったそうです。そうしたら紀子さまが“殿下とおっしゃい!”とぴしゃり。周囲が“身内の席だから”となだめても“けじめですから”と頑とされていたといいます。あまりに前のめりな紀子さまに、眞子さまが息苦しく感じられることもあったんだと思います。紀子さまからの『お小言』に対しての反発を口にされたこともあったといいます」(前出・皇室ジャーナリスト) | ||
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+ | だが、細心の注意を払おうとされるのは「天皇の母」となる紀子さまにとっては当然のことだった。それは、小室さんに金銭トラブルが持ち上がっても同様だった。 | ||
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+ | 「400万円という金額が高いと見るか安いと見るかは人ぞれぞれです。ですが、もし金銭トラブルを抱えたまま、現在の経済力で眞子さまと小室さんが結婚すれば、夫婦を利用しようという目的でお金や職をチラつかせて近づこうとする人たちがいてもおかしくありません。小室さんのことを、『将来の天皇の義兄』という色めがねで見れば、400万円の借金を肩がわりすることぐらい、大したことじゃないでしょうからね。紀子さまにとっては、そういったスキさえ脅威に感じられたのではないでしょうか」(前出・皇室記者) | ||
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+ | 悠仁さまファーストを貫かれる紀子さまの、“天皇の義兄”への視線が厳しくなるのは仕方がないことだったのだろう。だからこそ、眞子さまと衝突してでも、小室さんとの結婚に待ったをかける必要に、紀子さまはかられたのかもしれない。 | ||
=== 年譜 === | === 年譜 === |
2020年1月12日 (日) 20:13時点における最新版
文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ きこ、1966年9月11日 - )は、日本の皇族で、秋篠宮文仁親王の妃。旧名、川嶋紀子(かわしま きこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等は勲一等宝冠章。学位は修士(心理学)(学習院大学・1995年)。
目次
略歴[編集]
結婚以前[編集]
昭和41年(1966年)9月11日 、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市で誕生。父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカで過ごす。この間に自由学園幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。
父の仕事の都合から、小学校の転編入を繰り返す。昭和51年(1976年)、父が学習院大学教授に就任したことから、学習院初等科へ編入。しかし、翌年の1学期を終えた段階で、父がオーストリアウィーン郊外ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所(IIASA)の主任研究員に招かれたため、一家で渡墺。約2年間を同地で過ごす。
昭和54年(1979年)9月、日本へ帰国。学習院女子中等科へ編入し、学習院女子高等科を経て、昭和60年(1985年)、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の礼宮文仁親王(当時)と出会う。サークル活動を通して交際を深めた。昭和61年(1986年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。一方でスキャンダルとして報道されるのを防ぐため、友人達の協力を得て、わざと離れて写真に写ったりしていた。早い段階から宮中にも招かれ、皇太子明仁親王(当時)らとも面会していた。
婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と報道した媒体も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた。
平成元年(1989年)、学習院大学を卒業し同大学院進学、社会心理学を専攻する。同年8月26日、婚約内定が報道される。9月12日に開かれた皇室会議において全会一致で可決され、同日午後記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された。昭和天皇の喪が明けた平成2年(1990年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約が成立した。当時の住居が学習院大学教職員用の共同住宅だったことから、マスコミは3LDKのプリンセスと彼女を呼んだ。一般家庭から誕生した初々しい彼女の姿は好感を与え、多くの雑誌で特集され、さらに関連書籍・アニメがつくられるなど、「紀子さんブーム」とも呼べる現象となった。
同年、6月29日に結婚の儀が行なわれ、これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。
秋篠宮妃時代[編集]
翌平成3年(1991年)10月23日、眞子内親王が誕生。平成6年(1994年)12月29日には、佳子内親王誕生。 しかし、皇太子夫妻に遠慮をとの声もあり、その後は長らく子が誕生しなかった。
敬宮愛子内親王の誕生以降、皇太子夫妻に懐妊の兆候が無く、皇室は男系男子による相続が絶える危機に直面していた。平成15年(2003年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮ご夫妻に)第三子を強く希望する」と発言。平成18年(2006年)の歌会始では、夫妻ともに昨平成17年(2005年)9月24日のコウノトリ放鳥に関する和歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、夫妻にも第三子を望む気持ちがあったと考えられる。
平成16年(2004年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、平成18年(2006年)2月7日、紀子妃の懐妊がスクープされる。夫である秋篠宮に直接報告をする前の報道となり、紀子妃は動揺を受けた。その後2月25日に宮内庁から懐妊が正式発表された。
しかし、同年7月18日、部分前置胎盤による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる帝王切開による出産が実施されることが宮内庁より発表された。特に、皇后は紀子妃の身を非常に案じたと言う。8月16日より、東京都港区の愛育病院に入院。前日には一家で記念撮影をしており、紀子妃の覚悟がうかがえる。
9月6日午前8時27分、悠仁親王を出産。身長48.8 cm、体重2558g。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と臍帯血の提供を申し出ていたことが話題となる。
夫である文仁親王とともに、各種公務に熱心に取り組んでいる。特に代々皇后が伝統的に受け継いでいる養蚕を手伝う等、積極的に、皇后の姿を見習い、近づこうとしている。
眞子さまに厳しく接してきた紀子さまが置かれたお立場[編集]
秋篠宮家の長女・眞子さまと小室圭さんとのご結婚が延期となった。その背景には、小室家のトラブルがあったともいわれている。母・佳代さんと霊能者との付き合い、佳代さんと元婚約者との間の400万円金銭トラブルなどが報じられている。
眞子さまが秋篠宮家の長女として誕生されたのは1991年10月23日。両陛下にとって待望の初孫だった。
「世間は祝福ムードに包まれましたが、ひとり大きなプレッシャーを感じていたのが(母の)紀子さまでした。眞子さまは、将来国民の前に立って公務を担わなければいけない女性皇族という存在ですから、しっかりと育て上げなければならないという責任感を強く抱かれたようでした」(皇室ジャーナリスト)
紀子さまと秋篠宮さまの結婚に「一悶着」あったことも影響した。
「学習院大学の共同住宅で暮らされていた『3LDKのプリンセス』であった紀子さまには、格式や家柄を重視する皇室内の一部から“お相手としていかがなものか…”と囁かれました。加えて、秋篠宮ご夫妻の婚約が内定したのは、昭和天皇の喪が明ける前の1989年9月。それ自体も異例のことでしたが、当時、皇太子さまはまだご結婚前でした。暗黙の了解である『長幼の序』という考え方からも外れたものでした」(ベテラン皇室記者)
もし、子育てに落ち度があれば、「やっぱり…」と後ろ指を指されることにもなりかねない。ご結婚後、紀子さまが美智子さまのもとを頻繁に訪ね、皇族としての心構えから立ち居振る舞いまで丁寧に教えを請われていたのは、不安を打ち消したいという葛藤からだったのだろう。紀子さまの、眞子さまへの接し方は自然と厳しいものとなっていった。
「紀子さまは“私がしっかりしなければ”というお気持ちを強くもたれていました。眞子さまには常日頃から、“皇族としての自覚を持って行動するように”と口を酸っぱくして言われていました。言葉遣いや立ち居振る舞いはもちろんのこと、学習院初等科時代、眞子さまが花壇の縁のブロックの上を歩こうものならすぐに厳しく注意。でも、おふざけするのが普通の年頃でしたからね。周囲は“眞子さまはあんなにお利口さんなのに、紀子さまは厳しいわね”と漏らしていたほどです」(学習院関係者)
紀子さまの厳格な姿勢は、1994年に佳子さま、そして2006年に待望の男子である悠仁さまが誕生されたことでさらに加速した。
「悠仁は私たちだけの子ではありません。両陛下からお預かりした大切な命なのです」
その頃から、紀子さまはことあるごとにそう口にされるようになった。
「長らく皇室に男子が誕生しない中にあって、悠仁さまが生まれたことは、皇統の存続という面において大きな意味を持ちました。さらに、陛下の孫世代の男子は悠仁さまただお1人。将来皇位を継承するのが確実なことが、より紀子さまのプレッシャーを大きくしたようでした」(前出・ベテラン皇室記者)
かつての日本の家庭では、家督を継ぐ長男を中心に家庭が回っていくことはよくあった話だ。まして、皇位継承権をもつ悠仁さまが誕生された秋篠宮家において、その傾向が強く表出することは無理からぬ話だった。悠仁さまの誕生は、将来、眞子さまや佳子さまが「天皇の姉」になることを意味していた。
「眞子さまだけでなく、佳子さまにもより厳しくされたようです。あるお身内だけの食事会のとき、佳子さまが秋篠宮さまのことを“お父さま”と呼んだことがあったそうです。そうしたら紀子さまが“殿下とおっしゃい!”とぴしゃり。周囲が“身内の席だから”となだめても“けじめですから”と頑とされていたといいます。あまりに前のめりな紀子さまに、眞子さまが息苦しく感じられることもあったんだと思います。紀子さまからの『お小言』に対しての反発を口にされたこともあったといいます」(前出・皇室ジャーナリスト)
だが、細心の注意を払おうとされるのは「天皇の母」となる紀子さまにとっては当然のことだった。それは、小室さんに金銭トラブルが持ち上がっても同様だった。
「400万円という金額が高いと見るか安いと見るかは人ぞれぞれです。ですが、もし金銭トラブルを抱えたまま、現在の経済力で眞子さまと小室さんが結婚すれば、夫婦を利用しようという目的でお金や職をチラつかせて近づこうとする人たちがいてもおかしくありません。小室さんのことを、『将来の天皇の義兄』という色めがねで見れば、400万円の借金を肩がわりすることぐらい、大したことじゃないでしょうからね。紀子さまにとっては、そういったスキさえ脅威に感じられたのではないでしょうか」(前出・皇室記者)
悠仁さまファーストを貫かれる紀子さまの、“天皇の義兄”への視線が厳しくなるのは仕方がないことだったのだろう。だからこそ、眞子さまと衝突してでも、小室さんとの結婚に待ったをかける必要に、紀子さまはかられたのかもしれない。
年譜[編集]
- 1966年(昭和41年))9月11日 、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として誕生。
- 1985年(昭和60年)4月(18歳)、学習院大学・文学部心理学科入学。
- 1989年(平成元年)4月(22歳)、学習院大学卒業。同大大学院入学。
- 1990年(平成2年)6月29日(23歳)、礼宮文仁親王と結婚。これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。
- 1991年(平成3年)10月23日(25歳)、眞子内親王を出産。
- 1994年(平成6年)12月29日(28歳)、佳子内親王を出産。
- 1995年(平成7年)(28歳)、学習院大学大学院・人文科学研究科心理学専攻博士前期課程を修了
- 2006年(平成18年)9月6日(39歳)、悠仁親王を出産。
子女[編集]
逸話[編集]
- 本籍地は川嶋家父祖の地である和歌山県和歌山市だった。
- 「紀子」という名前は、和歌山県の旧国名紀伊国に由来するという説と、母方の祖母紀子(いとこ)に顔立ちが似ていたからという説がある[1]。
- 成婚を記念する番組内で、「平成のシンデレラ 紀子さま物語(制作スタジオコメット。1990年(平成2年)6月29日フジテレビ系特番)」というアニメが放送された。川嶋紀子と礼宮文仁親王の出会いと苦悩を描いた作品で、紀子の声優は歌手の石川秀美が、文仁親王は同局アナウンサー笠井信輔が担当した。皇室に関するアニメは極めて珍しい。
- 結婚に際し、ナマズをあしらった婚約指輪を文仁親王に贈った。
- 趣味の一つはツィターで、子女にウィーン民謡を弾き語りしたこともあった。
- 学生時代より手話を習っており、手話を行ないながらの演説や、外国訪問の際には現地語の手話を披露している。
- 学生時代の愛読書は、神谷美恵子のこころの旅。また絵本・児童書への関心を示し、海外の絵本などの翻訳と構成を手がけている。
家系[編集]
紀子 | 父: 川嶋辰彦 (学習院大学教授) |
祖父: 孝彦 (元内閣統計局長) |
祖母: 川嶋紀子 | ||
母: 川嶋和代 |
祖父: 杉本嘉助 (元満鉄総局副参事) | |
祖母: 杉本栄子 |
- 高祖父 川嶋庄右衛門(庄屋、地主)
- 高祖父 池上武輔(旧会津藩士 会津藩郡奉行 )
- 高祖父 小菅智淵(旧幕臣、陸地測量部初代部長、池上四郎の岳父)
- 曾祖父 川嶋庄一郎(教育者・学習院教授兼初等科長、佐賀師範学校校長、奈良師範学校校長)
- 曾祖父 池上四郎(大阪市市長、朝鮮総督府政務総監)
- 祖父 孝彦(官僚・内閣統計局長)
- 父 辰彦(経済学者、学習院大学経済学部教授)
- 叔父 川嶋行彦 (経営学者、東京国際大学商学部教授)
- 弟 舟(獣医師、東京農業大学農学部講師)
訳書[編集]
- 『ビーバーのベン』2007年,ISBN 4787585711
- 『オオカミのエリック』2007年,ISBN 478758572X
- 『ゾウのソフィ』2008年,ISBN 4787585762
- 『アリクイのオーレ』2008年,ISBN 4787585797
- 『トラのテレサ』2008年,ISBN 4787585827
備考[編集]
政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王妃紀子」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であっても、ホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮妃」の表記も用いられる。マスコミ等では「紀子さま」と、表現されている。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 文仁親王同妃両殿下 - 宮内庁(公式サイト)
- 読売新聞社・秋篠宮ご一家の歩み