「徐皇后 (永楽帝)」の版間の差分
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幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生(女学者という意味)」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年([[1376年]])に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]](洪武帝の皇后)に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾([[洪熙帝]])・次男[[朱高煦]]・3男[[朱高燧]]・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。 | 幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生(女学者という意味)」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年([[1376年]])に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]](洪武帝の皇后)に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾([[洪熙帝]])・次男[[朱高煦]]・3男[[朱高燧]]・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。 | ||
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永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、[[チベット]]から僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。 | 永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、[[チベット]]から僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。 | ||
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+ | == 系譜 == | ||
+ | *父:中山王[[徐達]] | ||
+ | *母:謝翠娥(謝再興の娘) | ||
+ | **弟:[[徐輝祖]] | ||
+ | **弟:徐添福(夭折) | ||
+ | **弟:[[徐膺緒]] | ||
+ | **弟:[[徐增壽]] | ||
+ | **妹:徐氏(代王[[朱桂]]の妃) | ||
+ | **妹:徐氏(安王[[朱楹]]の妃) | ||
+ | *夫:[[永楽帝]]朱棣 | ||
+ | **長女:永安公主(?‐1417)‐袁容に嫁ぐ | ||
+ | **長男:[[洪熙帝]]朱高熾(1378‐1425) | ||
+ | **次女:永平公主(1379‐1444)‐李讓に嫁ぐ | ||
+ | **次男:漢王[[朱高煦]](1380‐1426) | ||
+ | **三男:趙王[[朱高燧]](1383‐1431) | ||
+ | **三女:安成公主(1384‐1443)‐宋琥(西寧公[[宋晟]]の次男)に嫁ぐ | ||
+ | **四女:咸寧公主(1385‐1440)‐宋瑛(西寧公[[宋晟]]の三男)に嫁ぐ | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2011年11月6日 (日) 22:09時点における最新版
徐皇后(じょこうごう、1362年 - 1407年7月)は、明の第3代皇帝である永楽帝(朱棣)の皇后。安徽省鳳陽の人。朱元璋(洪武帝)に仕え明の建国に貢献した元勲である徐達の長女で、母は謝氏(謝再興の次女)。靖難の変で活躍した徐輝祖の姉。仁孝慈懿成明荘献配天斉聖文皇后と諡され、略して仁孝文皇后と呼ばれる。
幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生(女学者という意味)」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年(1376年)に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため馬皇后(洪武帝の皇后)に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾(洪熙帝)・次男朱高煦・3男朱高燧・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。
1399年に靖難の変が起こると、燕の本拠である北平(北京)に建文帝軍の将である李景隆が攻めてくる。このとき北平を守るは朱能とわずかな兵士だったが、徐氏も出征中の兵士の妻を集め自らも鎧を着て奮戦したという。1402年に靖難の変が終結すると、弟である徐輝祖の助命を夫に嘆願して許され、夫が永楽帝になると皇后になった。
慎み深い性格で、皇后になっても驕ることは無く自らの一族を重用することは決して無かった。文化事業に熱心で、古人の格言・善行を編纂した「内訓」や「高皇后聖訓」「勧善」などがある。1407年7月に死去。享年46。死因は乳癌だったとも言われる。
永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、チベットから僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。
系譜[編集]
参考文献[編集]
- 『明史』(中華書局)
- 『中国歴代皇帝人物事典』(河出書房新社)
- 『永楽帝』(徳間書店。伴野朗)
- Wikipedia中国語版・仁孝文皇后