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1924年(大正13)4月に静枝と再度渡米し、その後欧州を旅するが、この頃には[[社会主義]]に対する興味が減退しており、旅行の目的もはっきりしていなかったという{{Sfn|石本|2013|p=152}}。同年8月に[[ニューヨーク]]へ戻り、同年12月に帰国{{Sfn|石本|2013|p=152}}。 | 1924年(大正13)4月に静枝と再度渡米し、その後欧州を旅するが、この頃には[[社会主義]]に対する興味が減退しており、旅行の目的もはっきりしていなかったという{{Sfn|石本|2013|p=152}}。同年8月に[[ニューヨーク]]へ戻り、同年12月に帰国{{Sfn|石本|2013|p=152}}。 | ||
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*石本恵吉『日本工業政策論』巌松堂書店、1923年、{{NCID|BA43396916}} | *石本恵吉『日本工業政策論』巌松堂書店、1923年、{{NCID|BA43396916}} | ||
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*{{Aya|加藤|石本|year=2013}} 加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175 | *{{Aya|加藤|石本|year=2013}} 加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175 | ||
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2020年11月25日 (水) 00:26時点における最新版
石本 恵吉(いしもと けいきち、1887年 - 1951年)は、日本の男爵、社会運動家、事業家。陸軍大臣・石本新六の子。東京帝国大学卒、新渡戸稲造の門下生で、鶴見祐輔と同門。父の死後家督を継ぐ。大学卒業後、三井鉱山に入社。1914年に広田静枝(加藤シヅエ)と結婚し、鉱山労働者の貧困に触れて労働運動を研究し、革命ロシアへの入国を試みるも、失敗。1920年から3年間、全日本鉱夫総連合を資金面で支援した。
1922年の銀行恐慌や1923年の関東大震災による事業損失により資産を減らし、右派へ転向。朝鮮半島・満洲における事業経営を志して大陸へ渡り、満州事変の後、東満洲で東満銀行の設立や鉄道工事事業に関与した。その後も「満洲浪人」生活を続け、盧溝橋事件の後、北支豊田自動車の相談役となった。1944年に別居していた妻・静枝と離婚し、中国人女性と結婚したが、1949年に国民政府によって投獄されている間に妻子が失踪。日本に帰国し、1951年に死去した。
経歴[編集]
第一高等学校から東京帝国大学工学部採鉱冶金科へ進学[1]。当時、第一高等学校校長だった新渡戸稲造の門下生で、同門に鶴見祐輔がいた[2]。
1912年(大正1)、父・石本新六男爵が(第2次)西園寺内閣の陸軍大臣在任中に死去したため、25歳で家督を継ぐ[1][2]。
1914年(大正3)、27歳のとき、鶴見の姪で10歳年下の広田静枝と結婚[1][2]。
1915年1月、本人の希望により、三井鉱山の三池炭鉱に赴任[1][2]。1917年6月、長男・新誕生[3]。
1917年(大正6)または1918年(大正7)に、健康を害し、帰京[4][5]。三井鉱山子会社の化学研究所に勤務した[1]。
1918年(大正7)、労働運動の研究のため渡米[6]。
1919年2月、本人の希望でアメリカに出張[1]。
1920年1月に米国を離れて単身渡欧し、レーニン・トロツキーに会うため、片山潜の紹介状を持って革命後のソビエト・ロシアへの入国を試みるが、失敗[7][6]。同年9月に妻・静枝と合流し、ともに日本に帰国した[6]。
1920年頃、総同盟の炭鉱労働組合に参加。これを三井鉱山の経営陣から批判され、1921年に同社を辞職[1]。退職後、妻・静枝と朝鮮半島・中国を旅行する[7]。
1922年秋、全日本鉱夫総連合の調査部主任となった加藤勘十からの依頼を受け、同部の調査費用として1923年まで月500円の資金援助を約束する[8]。
1922年(大正11)の銀行恐慌のとき、石本家が預金や信託をしていた大信銀行が破綻。このとき石本は、弟の資産の損失補填のために「M弟」や他の弟から預かっていた資金を流用し、「M弟」や他の弟から死ぬ直前まで恨まれていたという[9]。資産の減少によって、家計も悪化[10]。
1923年(大正12)、日本労働学校での講義録をもとにして、『日本工業政策論』を出版。実際には加藤勘十が内容をまとめた[8]。
同年、関東大震災で、経営していた洋書輸入業が損失を蒙る[10]。
1924年(大正13)4月に静枝と再度渡米し、その後欧州を旅するが、この頃には社会主義に対する興味が減退しており、旅行の目的もはっきりしていなかったという[7]。同年8月にニューヨークへ戻り、同年12月に帰国[7]。
1924年頃から、朝鮮半島における灌漑施設や、渡満江から琿春にいたる鉄道の建設を夢見て朝鮮、中国を往来し始め、妻子と別居生活に入る[10]。この頃までに、他人の事業資金貸付の連帯保証人になるなどして、家財や資産をほとんどなくしていた[10]。
琿春では、張作霖の方針により、鉄道、鉱山、森林その他の事業は、日本人の経営には困難が伴っていたため、参入が容易だった金融業に参入することにし、資本金25,000円で共栄会社という金融会社を創業[11]。
1931年(昭和6)の満洲事変の後、琿春県を独立させることを企図し、奉天へ行って板垣征四郎や石原莞爾らに間島地方への出兵を促した[12]。
- この頃、東京にいた妻・静枝から、手紙で再三帰国を促される[13]。
琿春を不在にしている間に、共栄会社の支配人だった都築某が金を使い込みしたと連絡を受け、急いで琿春へ戻った[14]。
- 石本の回顧録(加藤 石本 2013 330)によると、都築は使い込みをしていたわけではなく、奥地の材木に投資をしており、1年後に木材事業で利益が出た、という。
満州事変の後、間島地方では従前からあった金融会社の大合同が行われ、石本は朝鮮の資本家・李圭煥を「呼んで来」るなど合同に尽力し、合同によって新設された東満銀行の監査役となった[11]。その後、朝鮮の訓戒駅から琿春に至る鉄道が開業した[15]。
1937年から1941年頃までに、弟5人が早逝[15]。
1938年頃、トヨタ自動車の取締役をしていた神谷正太郎のつてで、北支豊田自動車の設立を支援した[16]。のちに同社相談役となり[17]、同年12月に琿春から北京へ移った[1]。
1941年(昭和16)12月、大東亜戦争が始まると、日本が負けると考え、トヨタ自動車からの南方への異動の要請を断わり、同社を退社[18]。講和工作を志向し、閻錫山を仲介役にすることなどを計画したが、うまくいかなかったという[19]。
1944年(昭和19)、別居していた妻・静枝との離婚が成立[21]。
その後、中国共産党が根拠地としている延安へ行って野坂参三を介して交渉する計画を立て、安岡正篤を介して首相官邸に本間雅晴を訪ねて承諾を得、山西省にいた河本大作の支援を受けて、鍋山貞親を介して野坂と連絡を取ることに成功したが、軍当局の理解が得られず失敗したという[22]。
北京の父上は何か大旅行を計画して、遺言の如きものを残してゆかれましたが用意不充分のため挫折した様です。もう当分東京に来られることも無いでしょう。今では旅行はおろか私などは市内用達さえ外出しないことにしていますから、今はお互いに会う機会がありません。次の便り又待ちます。いつも元気で御奉公して下さい。 母より
離婚後、琪君という中国人女性と結婚して北京の景山陟山門の家に住み、娘・雪子(ともう一人の女子)をもうけた[24][25]。
終戦の直前、陸軍の大佐某と口論になって殴られた件で、日本の憲兵隊に留置され、軍法会議にかけられて、収監される。妻の尽力により、敗戦後になってから、出獄[26]。
1949年(昭和24)、中国共産党政府樹立の前に、国民政府当局によって1ヶ月刑務所に留置される[1]。石本は国民政府の北京国際問題研究所の研究員として中国側に留用されており、これを妬んだ他の日本人が、石本を共産主義者として密告したため、国民政府に逮捕された、とされる[27]。また結婚していた中国人女性の長兄が藍衣社の関係者で、留置されている間に妻が子供を連れて失踪してしまい、家財を持ち逃げされた、ともいわれている[27]。
同年、北京から日本へ送還される[1]。復員後、1ヶ月ほど妹の家に滞在[28]。滞在中は、1日中椅子に座って、ほとんど転た寝をしていたという[28]。
その後、東京の北部にある病院へ入院[29]。
1951年(昭和26)、転院先の熱海の病院で死去。享年64。[30][31]
著書[編集]
- 石本恵吉『日本工業政策論』巌松堂書店、1923年、NCID BA43396916
- 実際には加藤勘十が内容をまとめたとされる[8]。
- 加藤 石本 (2013) 加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175
評価[編集]
- 石本 (2013 350-351)は、石本は、気安く保証人を引き受けて財産を失い、戦後、中国人の妻に家財を持ち逃げされるなど、人がよく、騙されやすかった面があり、また終戦前後に姪から言われたという「親切で優しい、いい伯父様」という面もあり、どちらの意味でも「いい人」という表現があてはまるのではないか、としている。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 石本 2013 385
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 船橋 1988 361
- ↑ 船橋 1988 400
- ↑ 船橋 1988 361-362,400。船橋 (1988 400)は、1918年に帰京した、としている。
- ↑ 石本 2013 385は、1917年に帰京した、としている。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 船橋 1988 362,400-401
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 石本 2013 152
- ↑ 8.0 8.1 8.2 船橋 1988 364
- ↑ 加藤 石本 2013 334-335
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 船橋 1988 365
- ↑ 11.0 11.1 加藤 石本 2013 330-331
- ↑ 加藤 石本 2013 328-329
- ↑ 加藤 石本 2013 329
- ↑ 加藤 石本 2013 330
- ↑ 15.0 15.1 加藤 石本 2013 331-332
- ↑ 加藤 石本 2013 327,334
- ↑ 加藤 1988 118-119,136
- ↑ 加藤 石本 2013 336
- ↑ 加藤 石本 2013 336-338
- ↑ 加藤 1988 343-346
- ↑ 船橋 1988 384-387
- ↑ 加藤 石本 2013 337-340
- ↑ 加藤 石本 2013 115-116
- ↑ 加藤 石本 2013 341-342
- ↑ 石本 2013 348-349,385
- ↑ 加藤 石本 2013 343-344
- ↑ 27.0 27.1 石本 2013 348-350。渡辺龍策『馬賊夕陽に立つ』現代史出版会、1983年からの引用として。
- ↑ 28.0 28.1 石本 2013 347
- ↑ 石本 2013 346
- ↑ 石本 2013 346,385
- ↑ 船橋 1988 393
参考文献[編集]
- 石本 (2013) 石本幸子「解説」「あとがき」「略歴」(加藤 石本 2013 346-351,379-385)
- 船橋 (1988) 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」(加藤 1988 359-406)
- 加藤 (1988) 船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、JPNO 88052649