「京王相模原線」の版間の差分

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'''相模原線'''(さがみはらせん)は、[[東京都]][[調布市]]の[[調布駅]]から[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]までを結ぶ、[[京王電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
 
'''相模原線'''(さがみはらせん)は、[[東京都]][[調布市]]の[[調布駅]]から[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]までを結ぶ、[[京王電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
  
京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。
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京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。[[多摩ニュータウン]]へのアクセス路線の一つでもある。
  
 
== 路線データ ==
 
== 路線データ ==
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相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が[[1916年]]に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる[[砂利鉄道]]が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。
 
相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が[[1916年]]に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる[[砂利鉄道]]が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。
  
=== 多摩ニュータウン延伸 ===
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=== 多摩ニュータウンへの延伸 ===
[[多摩ニュータウン]]開発事業が1965年に決定して翌年から造成が開始されると、ニュータウン住民の足を担うためには鉄道が必要不可欠ということになり、京王帝都電鉄のほかに[[小田急電鉄]][[西武鉄道]]が免許の申請を行った。このうち、西武が申請した[[西武多摩川線|多摩川線]]延伸計画は、同線が[[武蔵境駅]][[中央線快速|中央線]]と接続していることから中央線の負担が大きくなるということで免許申請が取り下げられ<ref>森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.67</ref>、京王と小田急が多摩ニュータウンに乗り入れることになった。
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[[1958年]][[相模原市]][[首都圏整備法]]で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成し、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた<ref>『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、97ページ。</ref>。一方で京王でも、当時多摩町で開発を進めていた「[[桜ヶ丘 (多摩市)|京王桜ケ丘住宅地]]」をさらに南側に拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった<ref name="vansankan_tetsudou_p14-15">『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、14-15ページの京王電鉄関係者の発言より。</ref>。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の[[多摩ニュータウン]]区域内にあたり、後述の理由により実現はしなかったものの、現在の[[多摩センター駅]]付近の「多摩ニュータウン多摩[[土地区画整理事業]]」が施行された場所で買収が進んでいたとされる<ref name="tamant_archive1_p121"/>
  
京王が申請した免許は、多摩川支線を延伸して稲城中央・多摩センター・橋本を経て、相模中野([[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]中野、[[津久井湖]]南岸の集落)までで、橋本までが複線、以西が単線としてである。その後、[[1968年]]4月に都市交通審議会答申第10号で「10号線」の一部として、多摩と[[千葉ニュータウン|千葉]]の両ニュータウンを結ぶ路線としても位置付けられる。建設は1968年から開始され、1971年に調布駅 - [[京王よみうりランド駅]]間が相模原線として開業した。
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[[1963年]]に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは[[京王多摩川駅]]から[[多摩川]]を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]で[[横浜線]]と交差したのち、[[津久井湖]]の南側の相模中野に至るルートだった。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画に組み込まれて第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道されていた<ref>酒井宗一郎『新編・多摩市の郷土史誌(古代〜平成8年)』 多摩市立図書館所蔵資料、平成15年発行、203ページ。</ref>。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで、[[小田急電鉄]][[喜多見駅]]から分岐、[[西武鉄道]]は[[西武多摩川線|多摩川線]]を延長する形で免許申請を行った。そして[[1965年]]、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による[[新住宅市街地開発事業]]とともに、従来からの地権者が[[土地区画整理事業#換地処分|換地]]を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、先述した京王の新しい住宅地開発の構想はここで諦めざるを得ず、京王は[[京王高尾線|高尾線]]の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった<ref name="vansankan_tetsudou_p14-15"/>。
  
しかし、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。これは多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、[[調布駅|調布]][[新宿駅|新宿]]間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億円も掛かるとされ、京王帝都電鉄は採算が取れないとしたためである<ref name="yomiuri_S460521_ntshitetsu">読売新聞(昭和46年5月21日)</ref>。また多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限されたため、住宅の販売益で建設費用を賄うといったこともできなかった。小田急側も同じ言い分で[[小田急多摩線|多摩線]]の建設をストップしており、ニュータウンの住民はバスで[[聖蹟桜ヶ丘駅]]に出るなどを余儀なくされていた。京王帝都電鉄は[[東京都]]に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした<ref name="yomiuri_S460521_ntshitetsu"/>。最終的には、[[日本鉄道建設公団]]が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた。いわゆる'''P線方式'''の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が1974年6月に[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]まで、続いて京王が同年10月に[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]まで開業し、小田急も翌1975年に小田急多摩センター駅に到達した。
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京王と小田急が申請した免許は、現在の[[京王よみうりランド駅]]付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。京王側が新線を北側に移すにも用地の問題があり、小田急側が南側に移すにも[[三沢川]]を避けねばならず、起伏が多くトンネルが増えるという問題があった。両社の調整が難航していたため、[[運輸省]]は両社が競合しない区間のみ免許を下し、京王は京王多摩川 - 京王稲田堤、小田急は喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなった。その後、小田急側が[[新百合ヶ丘駅]]を新設してそこから分岐する現在の形に計画を変更し、新たに百合ヶ丘 - 多摩の免許申請を行うと同時に、得た免許の営業廃止許可を申請することでこの問題は解決した。これにより小田急は新たに申請した免許を受け、京王も残りの区間について免許を受けた。西武については、多摩川線を延伸する計画が[[中央線快速|中央線]]に負担をかけるという理由で免許は下りなかった<ref>『小田急五十年史』小田急電鉄、昭和55年、489ページ。</ref>。
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その後、多摩ニュータウン計画が具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王、小田急とで協議が行われた。[[多摩市]]内の区間について、ニュータウン側は京王と小田急の両社に、どちらか一方が谷戸部、もう一方が[[尾根幹線道路]]を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業の[[土地区画整理事業#減歩|減歩率]]を下げたいという思惑から、3本レールにしてレール幅の違う両社の車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急の担当者に「[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根鉄道]]みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという<ref name="tamant_archive1_p121">『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、121ページ。</ref><ref>『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、ヒアリング記録27ページ。</ref>。こうして多摩市内では現在の京王線と小田急線の線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争を繰り広げていたことに加え、新宿から[[河口湖]]までの「超特急」の構想を描いていたことから、相模原線はニュータウン区域内についても高規格な、カーブは最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した<ref name="tamant_archive1_p125">『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、125ページ。</ref>。これにより理論上、相模原線内は160km/hで運転可能な線形となっている。同様に小田急側も在来区間よりも高規格な最小曲率半径800メートル以上を要求した<ref name="tamant_archive1_p125"/>。協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。
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費用負担についてまとまらないまま、[[1968年]]に京王の新線建設が始まった。[[1971年]]に[[調布駅]] - 京王よみうりランド駅間が相模原線として開業したが、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時の新聞に掲載されたところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億も掛かるとされ、京王は採算が取れないとしていたためであった<ref name="yomiuri_s460521">読売新聞(昭和46年5月21日)</ref>。また、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限され、住宅の販売益で建設費用を賄うこともできないともしていた。小田急側も同じ言い分で多摩線の建設をストップしており、そんななかニュータウンの住民はバスで2km以上先の[[聖蹟桜ヶ丘駅]]に出るなどを余儀なくされていた<ref>『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、169ページ。</ref>。京王は[[東京都]]に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした<ref name="yomiuri_s460521"/>。最終的には、[[日本鉄道建設公団]]が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた。いわゆるP線方式(鉄建公団方式)の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が[[1974年]]6月に[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]まで、続いて京王が同年10月に[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]まで開業し、小田急も翌[[1975年]]に[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]に到達した。
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=== 京王多摩センター駅までの開業後の混乱 ===
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[[京王よみうりランド駅]] - [[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]間が開業した[[1974年]]当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。
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*[[稲城駅]]:1,915人
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*[[若葉台駅]]:422人
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*[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]:4,767人
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*京王多摩センター駅:3,512人
  
=== 京王多摩センター開業時の利用者数 ===
 
京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間が開業した1974年当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。
 
* [[稲城駅]]:1,915人
 
* [[若葉台駅]]:422人
 
* 京王永山駅:4,767人
 
* 京王多摩センター駅:3,512人
 
 
しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。
 
しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。
* 稲城駅:980人
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*稲城駅:980人
* 若葉台駅:280人
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*若葉台駅:280人
* 京王永山駅:7,165人
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*京王永山駅:7,165人
* 京王多摩センター駅:1,394人
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*京王多摩センター駅:1,394人
つまり、京王永山駅以外、乗降人員数が当初の予測より大きく下回っており、大きな問題となった。これは[[オイルショック]]に伴ってニュータウンにおいて住宅の大量供給の役割が終了し、住宅建設がストップしていたからである。以降、[[多摩ニュータウン]]では団地の大量建設から、景観に優れた良質な市街地の建設へと大きく舵を切ることになる。
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つまり、予測を上回ったのは京王永山駅だけという状況で、社内ではこれが問題となり、[[多摩ニュータウン]]側には京王から苦情が申し入れられた。これには多摩ニュータウン開発の遅れが影響していて、当時入居が進んでいたのは、諏訪団地と永山団地だけといった状況であり、多摩ニュータウンの人口は3万人に過ぎなかった。
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多摩ニュータウン開発の遅れの原因としては、まず、第一次入居の直後に[[多摩市]]が、多摩ニュータウン側との小学校や中学校等の公共施設の費用負担の問題から、多摩ニュータウンの住宅建設の許可を出さず、住宅建設が中止されていたということがあった。結局これは[[東京都]]が事実上、学校の土地・建物の費用を多摩市に対して無償で負担するということで解決し、第二次入居にこぎつけることになった<ref>『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、187ページ。なお、東京都が小中学校の新設費用を無償で負担すとことになったことで、多摩市内には多くの小中学校が設置された。これらは現在「少子化」ということで廃校が進められ、借地にしたり売却することで新たな土地利用が進んでいるが、ある意味でこの時に多摩市は将来の膨大な資産を無償で手に入れたとも言われている。</ref>。しかし、この最中に[[オイルショック]]が起き、開発の遅れのもう一つの原因となっただけでなく、多摩ニュータウン計画そのものを変えてしまった。
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[[1973年]]のオイルショックは日本経済を直撃し、[[高度成長期]]は終焉した。旺盛だった大都市への人口流入は沈静化し、それにより住宅需要も急速に冷え込んだ。第二次入居を始めた多摩ニュータウンでも、住宅不足を解決するための画一的な仕様・デザインの住宅は販売不振におちいり、入居がなかなか進まなかった。これをきっかけに多摩ニュータウンは、従来の「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」という計画から、「時間をかけて理想的な都市を作る」という計画に転換し、多彩でデザイン性に優れた住宅が供給されていくことになった<ref>北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、116,175ページ。</ref>。
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また開業当時、京王永山駅および京王多摩センター駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の乗車券の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した。これを不思議に思った電鉄側が[[改札#車内改札|車内検札]]を行ったところ、多くの利用客が新宿 - 聖蹟桜ヶ丘などの定期券を持っていた。相模原線が多摩ニュータウンへ乗り入れるまでは、多くの住民は[[聖蹟桜ヶ丘駅]]から京王線に乗っていたため、その定期券を悪用して[[不正乗車#キセル|キセル]]をしていたのであった。当時は[[自動改札機]]も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、[[不正乗車#事業者等による対策|フェアスルーシステム]]もなかった。
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=== 多摩ニュータウン西部地区への延伸 ===
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[[1980年代]]に入ると、[[多摩ニュータウン]]では西部地区にも開発が進展し、多摩ニュータウンの人口は[[1980年]]に6万人だったものが、[[1987年]]には10万人に達した<ref name="tamant_jigyoshi_p270"/>。[[多摩センター駅]]周辺で開発が進むなか、西部地区でも開発が進んで[[1983年]]に[[八王子市]]南大沢で入居が始まった。西部地区での鉄道開通前には、住民の足として南大沢から多摩センター駅までのバス路線が暫定的に運行された<ref>『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、98 - 99ページ。</ref>。
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延伸にあたっては、現在の[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]と[[京王堀之内駅]]の間にあるゴルフ場「府中カントリークラブ」の敷地内を通過するため、問題が生じていた。工事着工にあたりクラブ側に補償金5億円を提示したが拒否され、10億8,800万円まで引き上げるほか、地下に長さ500メートルのトンネルを建設し、13・14番ホールの中間で地表に出る設計を提示して交渉にあたった。しかしクラブ側は、(1)13・14番ホールは地表に出る部分を隠すために土盛りや芝生植え替えなど大幅なコース改造が必要 (2)工事期間中、ビジター料金収入が大きく減少する として補償金のさらなる引き上げを求めた。ルート変更も困難であったことから、京王と鉄建公団は強制収用の準備にかかったが、最終的には、トンネル出口部分を短縮し、コースレイアウトの変更を行うことでクラブ側とは同意に至り、補償金10億8800万円で和解した<ref name="kuramochi_sagamiharasen">倉持順一「多摩ニュータウン建設にともなう京王相模原線敷設問題」『多摩ニュータウン研究 No.9 2007』多摩ニュータウン学会、2007年、57-64ページ。</ref>。
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この問題の解決により延伸計画は前進し、1987年3月に[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]まで一気に開業する予定で計画が進められたが、今度は橋本駅付近で土地取得が難航した。橋本駅の終端部分と入口部分の地権者が買収を頑なに拒んでいたのである。一方で入居が進む多摩ニュータウン西部地区ではその足の確保が急務となっていたことから、[[1988年]]5月21日に京王多摩センター駅 - [[南大沢駅]]間が開業した。これにより、南大沢から多摩センター駅への暫定的なバス路線の運行は終了した<ref name="keio50_p142">『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、142ページ。</ref>。
  
また京王多摩センター駅および京王永山駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の[[乗車券]]の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した<ref>当時は[[自動改札機]]も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、[[不正乗車#交通機関の対処・対策|フェアスルーシステム]]もなかった。</ref>。これを不思議に思った電鉄側が[[車内検札]]を行ったところ、多くの利用客が新宿駅から聖蹟桜ヶ丘駅などの京王線内発着の[[定期乗車券|定期券]]を持っており、それを悪用して[[不正乗車#キセル|キセル]]をしていることが判明した。
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=== 橋本駅までの開業 ===
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[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]周辺の土地取得の問題は収用法の適用をもって解決し、[[1990年]]3月30日に[[南大沢駅]] - 橋本駅間が開業し、相模原線は全通した。[[1968年]]の工事着工から22年目のことだった。翌年には[[快速列車|快速]]列車が橋本駅から[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の[[本八幡駅]]までの直通運転を始め、[[神奈川県]]北部から[[千葉県]]を結ぶ東西の大動脈となった。これにより都心への玄関口となった橋本駅の乗降人員は、1990年から[[1997年]]にかけて2倍に増えた。<ref name="keio50_p142"/>
  
=== 京王多摩センター以西の建設の遅れ ===
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橋本駅まで開通した翌年の[[1991年]]4月6日には、[[多摩境駅]]が開業した。多摩境駅の設置にあたっては、地元からの「[[請願駅]]」という扱いで京王の負担を極力抑えている<ref>『多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業誌』東京都、平成17年、19ページ。</ref>。多摩境駅の周辺は「多摩ニュータウン相原・小山[[土地区画整理事業]]」が施行されているが、京王と小田急は施行区域内を先行買収しており、多くの土地を所有していた<ref>『たまヴァンサンかん街づくり講座 語り継ぐ多摩ニュータウンの計画論』 多摩市立図書館所蔵資料、平成9年発行、98ページ。</ref>。この地域では開発より前から土地を売りたいとする地権者が多く、多摩ニュータウン側から土地を買うように要請を受けてのことだった<ref>北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、204ページ。</ref>。
京王多摩センター駅以西の建設では、府中カントリークラブの地下をトンネルで通過することから、列車通過による振動などの影響を恐れたクラブ側と電鉄側の交渉が難航したこと(10億8,800万円の補償で決着)や、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]周辺での宅地化による地権者との交渉に時間がかかったことから、建設・開業に時間が掛かった。
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特に橋本駅周辺での交渉は長期化し、当初京王多摩センター駅 - 橋本駅間は一気に開通させるはずであったが、結局[[南大沢駅]]まで一旦暫定開業し、後に橋本駅まで延伸開業するということとなった。
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なお、多摩境駅の開業が全線開業より後になったのは理由があった。[[ニュータウン鉄道|ニュータウン新線]]において建設費などに補助金が出るのはニュータウンの範囲内だけでなく、ニュータウンの範囲外でもニュータウン居住者が利用する場合において、ニュータウンの範囲の次の駅までが補助金の対象になる取り決めになっている。多摩境駅は多摩ニュータウン区域内にあるものの、当初は事業認可未了となっている区域であったため、この取り決めにおけるニュータウンの範囲として扱うのは難しかった。つまり、そのまま橋本駅と多摩境駅を同時に建設すると、多摩境駅がニュータウンの範囲の次の駅として扱われてしまうことから、橋本駅までの補助金が出ないことになってしまうのである。そのため、ニュータウンの範囲の次の駅を終点の橋本駅にして、橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためであった(同じような事例が過去にも[[北大阪急行電鉄南北線|北大阪急行]][[緑地公園駅]]にあった)。
  
また、[[多摩境駅]]の開業が全線開通よりも後になったのは、京王多摩川駅以西が[[日本のニュータウン|ニュータウン]]計画に基づく[[ニュータウン鉄道|ニュータウン新線]]であり、建設費などに[[補助金]]が出るが、補助金が出るのはニュータウン地域の次の駅までであったためである。すなわち、当時は南大沢駅までが多摩ニュータウン内であり、ニュータウン外の[[町田市]]にある多摩境駅(現在は多摩ニュータウン区域内となっている)を同時に建設すると多摩境駅から先については補助金が出なくなるため、次の駅を終点の橋本駅にして橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためである(同じような事例が過去にも[[北大阪急行電鉄南北線|北大阪急行]][[緑地公園駅]]にあった)。
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橋本より先の橋本 - 相模中野間については、用地の取得が難しいことや用地費、工事費の高騰などにより、京王単独での建設が非常に困難であるとして、[[1988年]]3月に京王は免許を返上した<ref name="keio50_p142"/>。したがって、[[津久井湖]]までの延伸はかなわず、相模原線は多摩ニュータウン住民の足として定着することになった。多摩境駅の開業をもって、[[若葉台駅]]から多摩境駅にかけての[[多摩ニュータウン]]内の全駅開業となり、1991年の多摩境駅開業時に15万人だった多摩ニュータウンの人口は、13年後の[[2004年]]に20万人を突破した<ref name="tamant_jigyoshi_p270">「多摩ニュータウンの人口・世帯数の推移」『多摩ニュータウン開発事業史-通史編-』UR都市機構、平成18年、270ページ。</ref>。
  
 
=== 年表 ===
 
=== 年表 ===

2015年2月21日 (土) 23:42時点における版

京王8000系
京王9000系

相模原線(さがみはらせん)は、東京都調布市調布駅から神奈川県相模原市緑区橋本駅までを結ぶ、京王電鉄鉄道路線である。

京王電鉄の路線では唯一、神奈川県内も沿線とする路線である。多摩ニュータウンへのアクセス路線の一つでもある。

路線データ

  • 路線距離:22.6km
  • 軌間:1372mm
  • 複線区間:全線
  • 電化区間:全線(直流1500V)
  • 保安装置:京王ATC、速度制御式
  • 最高速度:110km/h

沿線概況

調布 - 京王よみうりランド

調布駅を出るとすぐに左に急カーブを切り、南向きに変わる。品川通りを過ぎると地下から一気に高架に駆け上がり、京王多摩川駅となる。この先で多摩川を渡り、川崎市に入る。南武線を跨ぐところに京王稲田堤駅がある。駅構内で大きく右カーブし、西に向きを変える。多摩丘陵の麓に沿うように進み、稲城市に入って京王よみうりランド駅となる。

京王よみうりランド - 京王多摩センター

そのまま西進し多摩丘陵に差し掛かるところで稲城駅となる。駅構内で大きく左カーブして南西に向きを変える。この先で武蔵野南線の高架をくぐり、丘陵に開かれた谷筋を進んでいく。右手に多摩ニュータウンのマンション群が見えると、西に向きを変えて再び川崎市に入り、鶴川街道を跨ぐと2面4線の若葉台駅である。この先右手に若葉台工場や留置線が見える。上り勾配になり、左手から迫ってくる小田急多摩線と併走し、若葉台第1トンネルで多摩市に入り、若葉台第2トンネルを抜けると京王永山駅である。西南西に向きを変えて下り勾配、そして上り勾配となって2面4線の京王多摩センター駅となる。多摩ニュータウンの中心駅である。

京王多摩センター - 橋本

多摩都市モノレール線の高架をくぐり、小田急多摩線を左手に見送って、西北西に向きを変える。上り勾配になり多摩センター第1・第2トンネルを抜けると南西に向きを変えて京王堀之内駅となる。多摩ニュータウン通り沿いに発展した住宅街を右手に見ながら下り勾配、そして上り勾配となって南大沢駅となる。ここから掘割となり、京王電鉄の山岳トンネルとしては最長の南大沢トンネル (809m) を抜けると多摩境駅である。ここで多摩丘陵を抜け高架となり、境川を越えて相模原市に入る。相模原市街地の中をそのまま高架で進み、右カーブしながら横浜線相模線を跨いで橋本駅に到着する。

歴史

砂利運搬鉄道としての開業

相模原線は、京王電鉄の前身である京王電気軌道が1916年に開業させた調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間の多摩川支線(文献により多摩川原支線)に端を発する。当時、多摩川で採取された砂利を都心に運搬するための鉄道、いわゆる砂利鉄道が何本も敷設されており、多摩川支線もその一つとして開業した。

多摩ニュータウンへの延伸

1958年相模原市首都圏整備法で「開発区域」の指定を受けたことで、同市とその周辺は急速に工業地域、新興住宅地に変貌していった。そのなかで、当時の稲城町、多摩町、町田市、八王子市、相模原市、城山町、津久井町は、「京王帝都新路線建設促進実行委員会」を結成し、現在の相模原線の原型になるようなルートでの新線の建設を京王に強く働きかけた[1]。一方で京王でも、当時多摩町で開発を進めていた「京王桜ケ丘住宅地」をさらに南側に拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線を敷設する構想があった[2]。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発の構想は、現在の多摩ニュータウン区域内にあたり、後述の理由により実現はしなかったものの、現在の多摩センター駅付近の「多摩ニュータウン多摩土地区画整理事業」が施行された場所で買収が進んでいたとされる[3]

1963年に京王は、多摩川支線を延長する免許を申請した。それは京王多摩川駅から多摩川を渡り、概ね現在の多摩ニュータウン区域を東西に横断して、橋本駅横浜線と交差したのち、津久井湖の南側の相模中野に至るルートだった。この年には「多摩町で大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画に組み込まれて第一次入居が行われることになる諏訪団地・永山団地の開発計画が報道されていた[4]。他社も京王の免許申請に呼応して同様のルートで、小田急電鉄喜多見駅から分岐、西武鉄道多摩川線を延長する形で免許申請を行った。そして1965年、地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウンが都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による新住宅市街地開発事業とともに、従来からの地権者が換地を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため、先述した京王の新しい住宅地開発の構想はここで諦めざるを得ず、京王は高尾線の建設と「めじろ台住宅地」の開発を進めることになった[2]

京王と小田急が申請した免許は、現在の京王よみうりランド駅付近で両社の新線が入り混じるため、この区間の調整が問題になった。京王側が新線を北側に移すにも用地の問題があり、小田急側が南側に移すにも三沢川を避けねばならず、起伏が多くトンネルが増えるという問題があった。両社の調整が難航していたため、運輸省は両社が競合しない区間のみ免許を下し、京王は京王多摩川 - 京王稲田堤、小田急は喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなった。その後、小田急側が新百合ヶ丘駅を新設してそこから分岐する現在の形に計画を変更し、新たに百合ヶ丘 - 多摩の免許申請を行うと同時に、得た免許の営業廃止許可を申請することでこの問題は解決した。これにより小田急は新たに申請した免許を受け、京王も残りの区間について免許を受けた。西武については、多摩川線を延伸する計画が中央線に負担をかけるという理由で免許は下りなかった[5]

その後、多摩ニュータウン計画が具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王、小田急とで協議が行われた。多摩市内の区間について、ニュータウン側は京王と小田急の両社に、どちらか一方が谷戸部、もう一方が尾根幹線道路を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業の減歩率を下げたいという思惑から、3本レールにしてレール幅の違う両社の車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急の担当者に「箱根鉄道みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという[3][6]。こうして多摩市内では現在の京王線と小田急線の線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争を繰り広げていたことに加え、新宿から河口湖までの「超特急」の構想を描いていたことから、相模原線はニュータウン区域内についても高規格な、カーブは最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した[7]。これにより理論上、相模原線内は160km/hで運転可能な線形となっている。同様に小田急側も在来区間よりも高規格な最小曲率半径800メートル以上を要求した[7]。協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。

費用負担についてまとまらないまま、1968年に京王の新線建設が始まった。1971年調布駅 - 京王よみうりランド駅間が相模原線として開業したが、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時の新聞に掲載されたところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時の輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線の建設費用410億円にあわせ複々線化の費用が数百億も掛かるとされ、京王は採算が取れないとしていたためであった[8]。また、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業が制限され、住宅の販売益で建設費用を賄うこともできないともしていた。小田急側も同じ言い分で多摩線の建設をストップしており、そんななかニュータウンの住民はバスで2km以上先の聖蹟桜ヶ丘駅に出るなどを余儀なくされていた[9]。京王は東京都に対し、(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架、橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助 を要求したが、都は「民間企業である私鉄へ用地を無償提供する考えは無い」とした[8]。最終的には、日本鉄道建設公団が民鉄線を建設し、完成後に民鉄が25年で元利を償還する方策がとられた。いわゆるP線方式(鉄建公団方式)の始まりである。これにより両線の工事は再開され、まず小田急が1974年6月に小田急永山駅まで、続いて京王が同年10月に京王多摩センター駅まで開業し、小田急も翌1975年小田急多摩センター駅に到達した。

京王多摩センター駅までの開業後の混乱

京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間が開業した1974年当時、京王は次の各駅の乗降人員数を以下のように予測していた。

しかし、実際に開業してみると、以下のような結果となった。

  • 稲城駅:980人
  • 若葉台駅:280人
  • 京王永山駅:7,165人
  • 京王多摩センター駅:1,394人

つまり、予測を上回ったのは京王永山駅だけという状況で、社内ではこれが問題となり、多摩ニュータウン側には京王から苦情が申し入れられた。これには多摩ニュータウン開発の遅れが影響していて、当時入居が進んでいたのは、諏訪団地と永山団地だけといった状況であり、多摩ニュータウンの人口は3万人に過ぎなかった。

多摩ニュータウン開発の遅れの原因としては、まず、第一次入居の直後に多摩市が、多摩ニュータウン側との小学校や中学校等の公共施設の費用負担の問題から、多摩ニュータウンの住宅建設の許可を出さず、住宅建設が中止されていたということがあった。結局これは東京都が事実上、学校の土地・建物の費用を多摩市に対して無償で負担するということで解決し、第二次入居にこぎつけることになった[10]。しかし、この最中にオイルショックが起き、開発の遅れのもう一つの原因となっただけでなく、多摩ニュータウン計画そのものを変えてしまった。

1973年のオイルショックは日本経済を直撃し、高度成長期は終焉した。旺盛だった大都市への人口流入は沈静化し、それにより住宅需要も急速に冷え込んだ。第二次入居を始めた多摩ニュータウンでも、住宅不足を解決するための画一的な仕様・デザインの住宅は販売不振におちいり、入居がなかなか進まなかった。これをきっかけに多摩ニュータウンは、従来の「少しでも早く安く、計画的な良好な都市を大規模に提供する」という計画から、「時間をかけて理想的な都市を作る」という計画に転換し、多彩でデザイン性に優れた住宅が供給されていくことになった[11]

また開業当時、京王永山駅および京王多摩センター駅では、当時の初乗り運賃である40円区間の乗車券の売れ行きが異常に多いと共に、その乗車券が回収されないという事態が発生した。これを不思議に思った電鉄側が車内検札を行ったところ、多くの利用客が新宿 - 聖蹟桜ヶ丘などの定期券を持っていた。相模原線が多摩ニュータウンへ乗り入れるまでは、多くの住民は聖蹟桜ヶ丘駅から京王線に乗っていたため、その定期券を悪用してキセルをしていたのであった。当時は自動改札機も導入されておらず、乗車券類は紙製のものであり、フェアスルーシステムもなかった。

多摩ニュータウン西部地区への延伸

1980年代に入ると、多摩ニュータウンでは西部地区にも開発が進展し、多摩ニュータウンの人口は1980年に6万人だったものが、1987年には10万人に達した[12]多摩センター駅周辺で開発が進むなか、西部地区でも開発が進んで1983年八王子市南大沢で入居が始まった。西部地区での鉄道開通前には、住民の足として南大沢から多摩センター駅までのバス路線が暫定的に運行された[13]

延伸にあたっては、現在の京王多摩センター駅京王堀之内駅の間にあるゴルフ場「府中カントリークラブ」の敷地内を通過するため、問題が生じていた。工事着工にあたりクラブ側に補償金5億円を提示したが拒否され、10億8,800万円まで引き上げるほか、地下に長さ500メートルのトンネルを建設し、13・14番ホールの中間で地表に出る設計を提示して交渉にあたった。しかしクラブ側は、(1)13・14番ホールは地表に出る部分を隠すために土盛りや芝生植え替えなど大幅なコース改造が必要 (2)工事期間中、ビジター料金収入が大きく減少する として補償金のさらなる引き上げを求めた。ルート変更も困難であったことから、京王と鉄建公団は強制収用の準備にかかったが、最終的には、トンネル出口部分を短縮し、コースレイアウトの変更を行うことでクラブ側とは同意に至り、補償金10億8800万円で和解した[14]

この問題の解決により延伸計画は前進し、1987年3月に橋本駅まで一気に開業する予定で計画が進められたが、今度は橋本駅付近で土地取得が難航した。橋本駅の終端部分と入口部分の地権者が買収を頑なに拒んでいたのである。一方で入居が進む多摩ニュータウン西部地区ではその足の確保が急務となっていたことから、1988年5月21日に京王多摩センター駅 - 南大沢駅間が開業した。これにより、南大沢から多摩センター駅への暫定的なバス路線の運行は終了した[15]

橋本駅までの開業

橋本駅周辺の土地取得の問題は収用法の適用をもって解決し、1990年3月30日に南大沢駅 - 橋本駅間が開業し、相模原線は全通した。1968年の工事着工から22年目のことだった。翌年には快速列車が橋本駅から都営新宿線本八幡駅までの直通運転を始め、神奈川県北部から千葉県を結ぶ東西の大動脈となった。これにより都心への玄関口となった橋本駅の乗降人員は、1990年から1997年にかけて2倍に増えた。[15]

橋本駅まで開通した翌年の1991年4月6日には、多摩境駅が開業した。多摩境駅の設置にあたっては、地元からの「請願駅」という扱いで京王の負担を極力抑えている[16]。多摩境駅の周辺は「多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業」が施行されているが、京王と小田急は施行区域内を先行買収しており、多くの土地を所有していた[17]。この地域では開発より前から土地を売りたいとする地権者が多く、多摩ニュータウン側から土地を買うように要請を受けてのことだった[18]

なお、多摩境駅の開業が全線開業より後になったのは理由があった。ニュータウン新線において建設費などに補助金が出るのはニュータウンの範囲内だけでなく、ニュータウンの範囲外でもニュータウン居住者が利用する場合において、ニュータウンの範囲の次の駅までが補助金の対象になる取り決めになっている。多摩境駅は多摩ニュータウン区域内にあるものの、当初は事業認可未了となっている区域であったため、この取り決めにおけるニュータウンの範囲として扱うのは難しかった。つまり、そのまま橋本駅と多摩境駅を同時に建設すると、多摩境駅がニュータウンの範囲の次の駅として扱われてしまうことから、橋本駅までの補助金が出ないことになってしまうのである。そのため、ニュータウンの範囲の次の駅を終点の橋本駅にして、橋本駅までの建設に補助金を当てようとしたためであった(同じような事例が過去にも北大阪急行緑地公園駅にあった)。

橋本より先の橋本 - 相模中野間については、用地の取得が難しいことや用地費、工事費の高騰などにより、京王単独での建設が非常に困難であるとして、1988年3月に京王は免許を返上した[15]。したがって、津久井湖までの延伸はかなわず、相模原線は多摩ニュータウン住民の足として定着することになった。多摩境駅の開業をもって、若葉台駅から多摩境駅にかけての多摩ニュータウン内の全駅開業となり、1991年の多摩境駅開業時に15万人だった多摩ニュータウンの人口は、13年後の2004年に20万人を突破した[12]

年表

  • 1916年大正5年)6月1日 - 調布駅 - 多摩川原駅(京王多摩川駅)間(1.0km)開業。
  • 1924年(大正13年)4月1日 - 調布駅 - 多摩川原駅間複線化。
  • 1937年昭和12年)5月1日 - 多摩川原駅を京王多摩川駅に改称。
  • 1963年(昭和38年)8月4日 - 架線電圧を1500Vに昇圧。
  • 1971年(昭和46年)4月1日 - 京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間(2.7km)開業。相模原線と路線名が改称される。
  • 1974年(昭和49年)10月18日 - 京王よみうりランド駅 - 京王多摩センター駅間(9.8km)開業。
  • 1988年(昭和63年)5月21日 - 京王多摩センター駅 - 南大沢駅間(4.5km)暫定開業。
  • 1990年平成2年)3月30日 - 南大沢駅 - 橋本駅間(4.4km)開業(全線開通)。
  • 1991年(平成3年)4月6日 - 南大沢駅 - 橋本駅間に多摩境駅が開業。
  • 2010年(平成22年)3月26日 - ATCの使用を開始。
  • 2012年(平成24年)8月19日 - 調布駅 - 京王多摩川駅間地下化。これにより、相模原線からすべての踏切がなくなった。

運転

京王相模原線に乗り入れる都営車

都営地下鉄新宿線-京王線-相模原線(本八幡駅-橋本駅間)は、都市交通審議会答申第10号で「10号線」として位置付けられていることもあり、1980年3月から相互直通運転を実施している。当初、京王車が主に快速として都営新宿線岩本町駅 - 相模原線京王多摩センター駅間、都営車が都営新宿線 - 京王線笹塚駅間で運行されていたが、順次その範囲は拡大され、現在は両社局の車両が全区間を運行している。

1992年5月には新宿駅 - 橋本駅間の特急が設定されたが、相模原線内での停車駅が調布駅・京王多摩センター駅・橋本駅と少なく、調布駅での各駅停車への接続廃止後は相模原線の特急通過駅では使いにくい上、新宿駅 - 調布駅間では急行の後追い運転であり京王線系統の特急よりも所要時間がかかることもあって、2001年3月のダイヤ改定で一旦廃止され、代わりに急行が設定された。急行は、特急の相模原線内の停車駅に京王稲田堤駅京王永山駅南大沢駅を追加した上、都営新宿線の急行と結んで本八幡駅 - 橋本駅(一部をのぞく)間の運転とした。またこのダイヤ改正から急行・快速は、調布駅で京王線系統の特急・準特急と接続し、乗り換えた場合は明大前駅・新宿駅との所要時間が短縮された。2013年2月22日のダイヤ改定より特急が復活し、同線では急行停車駅に停車する。

かつては列車の車両数を調節するため、朝のラッシュ後と夕方のラッシュ前の時間帯を中心に若葉台駅で車両交換を行う列車があったが、2006年9月以降は若葉台駅を行先として表示するようになったため、このような車両交換はなくなった(車両故障時などはのぞく)。車両交換の案内は、相模原線内での車内放送のほか電光行先案内板の備考(2005年3月25日時点では電光行先案内板のあった京王稲田堤駅・京王永山駅・京王多摩センター駅・南大沢駅・橋本駅のみ)に表示されていた。

運転の歴史

  • 1980年(昭和55年)3月16日 - 都営新宿線新宿駅 - 岩本町駅間開業。岩本町駅 - 京王多摩センター駅間で相互直通運転開始(都営車は笹塚駅まで)。
  • 1987年(昭和62年)12月20日 - 京王車の乗り入れ区間を都営新宿線大島駅まで、都車の乗り入れ区間を京王多摩センター駅まで延長(その後、都営車の乗り入れ区間は相模原線の延伸と共に延長)。
  • 1991年(平成3年)9月1日 - 京王車の乗り入れ区間を本八幡駅へ延長。
  • 1992年(平成4年)5月28日 - 新宿駅 - 橋本駅間の特急運転開始。
  • 2001年(平成13年)3月27日 - 新宿駅 - 橋本駅間の特急廃止、急行の運転開始。
  • 2005年(平成17年)3月25日 - 平日朝ラッシュ時の新宿方面優等列車がほぼすべて10両編成に統一され、また平日夜間時間帯の急行が増発された(詳細は後述)。
  • 2006年(平成18年)9月1日 - 都営新宿線直通列車のほぼすべてが10両編成化され、相模原線内折り返し各駅停車もすべて8両編成化された(詳細は後述)。
  • 2010年(平成22年)3月19日 - 日中の快速・各駅停車がすべて10両編成化される。
  • 2013年(平成25年)2月22日 - ダイヤ改定により特急が復活し、通勤快速が区間急行に変更となる[19]

列車種別

特急

2013年2月22日のダイヤ改定から、新宿駅- 橋本駅間で運転を復活した種別。停車駅は、新宿駅 - 明大前駅 - 調布駅 - 京王稲田堤駅 - 京王永山駅 - 京王多摩センター駅 - 南大沢駅 - 橋本駅で、相模原線内は急行と同じ停車駅となる。

2013年から運転を開始した相模原線特急は実質2代目であり、初代の特急は1992年5月28日 - 2001年3月26日の間に運転されていた。当時はほとんどの列車が京王線内では急行を追尾するダイヤとなっていたため、新宿駅 - 調布駅間の所要時間は急行と大差なかったが、京王多摩センター駅で先行する快速を追い抜いて(設定当初の下りのみ調布駅でも後続の各停に接続)通過する各駅へのフォローも行い、相模原線の主力種別であった。相模原線内では京王多摩センターをのぞく途中駅は、すべて通過となっていた。

これ以前にも京王多摩川駅を最寄りとする京王閣競輪開催時には、レース終了後に同駅始発で新宿駅まで向かう特急が運転されていた(車両は、1984年以前は京王よみうりランド駅折り返し、京王よみうりランド - 京王多摩川間は回送運転、1984年以降は若葉台駅出庫、同駅 - 京王多摩川間は回送運転とされていた)。なお、1992年5月以降は競輪終了時に上り特急の一部列車を京王多摩川駅に臨時停車させることで、利用客への便宜を図っていた。現在の特急も同様に臨時停車が行われている。

2001年の特急廃止後、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は相模原線の特急の復活を要求していたが[20]、2013年2月22日のダイヤ改定より、12年ぶりに復活することになった[19]

急行

平日は朝と夕方のみ、土曜・休日は下り橋本行数本のみ運転。2013年2月21日のダイヤ改定前は、かつて相模原線急行の多くが20分間隔で京王線京王新線経由で都営新宿線本八幡駅(土曜・休日ダイヤの一部は大島駅)まで直通運行されていた。朝のラッシュ時と平日夕方の京王線新宿 - 橋本間の列車は主に10両編成。都営新宿線直通も2006年9月のダイヤ改定後は、朝の一部列車に都営車8両が使用される以外は10両編成で運行。京王閣競輪開催時には、京王多摩川駅に臨時停車していた。また、平日の朝ラッシュ時および夕方には京王線内のみ急行で都営新宿線内は各駅停車として運行、平日の夕方以降には調布駅 - 橋本駅間は急行、京王線・都営新宿線の本八幡駅 - 調布駅間は快速として運転される列車もあった。また、朝と夕方から夜間には京王線新宿発着の急行も運行されていた。

都営新宿線内各駅停車の急行の場合、上り列車の行先・種別表示は京王線内では「急行 新線新宿」(都営10-000形は「急行 新宿」)と表示、下り列車は都営新宿線内では「各停 橋本」(10-000形では種別表示はない)、駅の発車案内板には「普通 橋本」と表示される。かつて6000系では誤乗防止の観点から京王新線・都営新宿線方面行では、緑地の方向幕で表示されていた。

区間急行

2013年2月22日のダイヤ改定で、通勤快速から改称された。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車があり、前者は平日の日中と土曜・休日のほぼ終日に渡り20分間隔で運転、後者は平日の朝と深夜の下り・土休日の朝と夕方のみ運転される。上りは橋本発のほかに京王多摩センター始発・深夜の桜上水止まりがあり、下りは橋本行と若葉台行がある。多くは10両編成だが、平日朝の都営新宿線直通には都営車8両編成も使用されている。

なお、都営新宿線直通列車の多くは、都営線内を急行運転する。その際、相模原線を含む京王線内では、京王車は『区急|新線新宿』→『新線新宿から急行本八幡行』→『都営新宿線直通』といった形で切り替えて表示している。都営車では切り替え表示機能が無いため、『区急(区間急行)|(新線)新宿』と固定表示される。いずれも新線新宿駅到着時に『急行|本八幡』と表示を変更する。 平日の朝夕は都営新宿線内は各駅停車で運転されている。その場合京王線内では、たとえば本八幡行では『区急|本八幡』と表示している。新線新宿駅到着時には『各停|本八幡』に変更される。

快速

1974年10月18日の京王よみうりランド - 京王多摩センター間開業以降、1992年5月28日の初代特急運転開始以前は相模原線内でも快速運転をしていた(設定当時の停車駅は調布、京王多摩川、京王稲田堤、京王よみうりランド、京王永山、京王多摩センター)。1988年5月21日の京王多摩センター - 南大沢間開業時は、快速は京王多摩センター発着、通勤快速は南大沢発着で、1990年3月30日に運転区間が橋本まで延長された後、1991年4月6日から南大沢が停車駅に加わった。特急の運転開始後は現行の相模原線内各駅停車に改められている(現在の特急・急行は初代の特急運転開始前の快速に近い停車駅設定となっており、京王多摩川・京王よみうりランドを通過すること以外は同じである)。

2013年2月22日のダイヤ改定では、主に調布で橋本発着の特急と接続する京王線新宿発着列車が中心となり、都営新宿線直通列車は極少数まで減らされた。早朝と夜間以降には、下りの京王多摩センター行、上りの桜上水行・つつじヶ丘行もある。

2013年2月21日までの日中・深夜と土曜・休日の深夜は京王線新宿発着で運行され、土曜・休日の朝と夕方以降は都営新宿線に直通し、本八幡・大島発着で運転されていた。このほか、平日の夕方以降には相模原線内急行・京王線内快速という列車もあった。基本は橋本発着だが、一部に若葉台や京王多摩センター発着もあり、一部の若葉台発着をのぞいて橋本発着の各停との接続が行われていた。また2012年8月19日の調布駅地下化によるダイヤ改定により、早朝時間帯に若葉台始発の快速つつじヶ丘行が登場した。調布駅での折り返しができなくなったことに伴い、この列車は折り返し設備のあるつつじヶ丘駅まで営業運転して、到着後はそのまま調布方面へ回送として折り返す。また、つつじヶ丘駅では後続の新宿行の快速・通勤快速に接続していた。

京王線新宿発着・都営新宿線直通ともに多くの電車が10両編成で運行されるが、一部の都営新宿線直通は都営車8両編成で運行される。

※急行、快速(通勤快速)の京王線内の停車駅は、京王線の記事中の「駅一覧」を参照。

各駅停車

2013年2月22日のダイヤ改定により、平日は朝夕のみ、土曜・休日は早朝と深夜のみ運転となった。それ以外の時間帯は相模原線内各駅停車の区間急行・快速が運転され、各駅停車を補完している。ごく一部に若葉台・京王多摩センター発着、また橋本発着の都営新宿線直通各駅停車も僅かながらある。 京王多摩センター始発の橋本行各停は、すべて調布方面からの京王多摩センター止まりの列車との接続が行われている。

2013年2月21日以前は一日を通して設定されており、朝ラッシュ時を中心に新宿駅方面へ直通する列車も設定された一方、日中以降は大部分が相模原線内の区間で折り返し運転を行なっていた。折り返し運転の際は、調布駅で上りは京王八王子方面からの、下りは京王八王子方面行の各駅停車と接続を取っていた。

折り返し運転ダイヤ時代、2006年9月のダイヤ改定までは日中を中心に6両編成での運転があったが、同改定以降、日中は都営新宿線直通列車に10両編成の京王車が重用されたことによる距離調整のため、都営車の8両編成での運転となり、6両編成での運転が無くなった。このため、折り返し運転専属だった6000系5扉車の6721Fは運用を離脱した。2010年3月19日のダイヤ修正では日中の列車はすべて10両編成化され、都営車を含む8両編成は夕方以降に見られるようになった。 線内折り返し運転の際、調布駅付近の地下化以前は、調布駅にて本線上を利用して行われていた。2012年8月19日の調布駅付近地下化以降はつつじヶ丘駅まで一度回送して、つつじヶ丘駅構内で折り返していた。

廃止された種別

通勤快速

2013年2月22日ダイヤ改定まで運転されていた種別。平日朝ラッシュ時および深夜時間帯下りのみ運転となっていた。都営新宿線直通列車と京王線新宿駅発着列車がある。上りには橋本発のほかに京王多摩センター始発があり、下りは橋本、京王多摩センター、若葉台行があった。多くは10両編成だが、平日朝の都営新宿線直通には都営車8両編成も使用されていた。同ダイヤ改定で区間急行に改称されて消滅した。

女性専用車

平日朝7:30 - 9:30に新宿駅または新線新宿駅に到着する上り急行・区間急行および都営新宿線直通電車の進行方向先頭車両が女性専用車になる。実施区間は新宿線本八幡方向を含めた全区間で、この時間に運転される急行・区間急行および都営新宿線直通はいずれも京王車の10両編成で運行されるが、運用の乱れによって8両編成が充当される場合は設定されない。

車両

現用車両

京王電鉄#現用車両

乗り入れ車両

駅一覧

  • 停車駅 … ●:停車|:通過。各駅停車・快速・区間急行は各駅に停車するため省略。
  • 駅番号は2013年2月22日から導入[21]
  • #印上下待避可能駅
駅番号 駅名 駅間キロ 累計キロ 急行 特急 接続路線 所在地
調布から 新宿から
 
KO18 調布駅 - 0.0 15.5 京王電鉄KO 京王線(各駅停車の一部をのぞく全列車が新宿方面直通) 東京都調布市
KO35 京王多摩川駅 1.2 1.2 16.7
KO36 京王稲田堤駅 1.3 2.5 18.0 東日本旅客鉄道南武線稲田堤駅 神奈川県
川崎市多摩区
KO37 京王よみうりランド駅 1.4 3.9 19.4 東京都稲城市
KO38 稲城駅 1.6 5.5 21.0
KO39 若葉台駅# 3.3 8.8 24.3 神奈川県
川崎市麻生区
KO40 京王永山駅 2.6 11.4 26.9 小田急電鉄多摩線小田急永山駅:OT05) 東京都 多摩市
KO41 京王多摩センター駅# 2.3 13.7 29.2 小田急電鉄:多摩線(小田急多摩センター駅:OT06)
多摩都市モノレール多摩都市モノレール線多摩センター駅
KO42 京王堀之内駅 2.3 16.0 31.5 八王子市
KO43 南大沢駅 2.2 18.2 33.7
KO44 多摩境駅 1.9 20.1 35.6 町田市
KO45 橋本駅 2.5 22.6 38.1 東日本旅客鉄道:横浜線相模線 神奈川県
相模原市緑区

新駅構想など

稲城駅 - 若葉台駅間の中間地点付近に、沿線の稲城市坂浜・平尾地区の土地区画整備の一環として坂浜新駅(仮称)を設置する構想があるが採算性が見込めず実現には至っていない[22]

稲城市では、稲城駅に急行を停車させる政策を掲げ、京王電鉄に働きかけを行っている[23]

その他

相模原線では新路線として開設するための建設費の償還を目的とした加算運賃が設定されており、京王多摩川 - 橋本間を利用する場合(他の区間に跨る場合を含む)は、利用する距離に応じて運賃が加算される(加算額は京王電鉄#運賃参照。なお調布 - 京王多摩川間は既設路線のため運賃の加算はない)。

同区間は、完成したのが1970年代以降と比較的新しく、カーブが少なく高速で安定した走行が可能であり、調布駅周辺の連続立体交差(地下化)事業が完了した後は全線にわたって踏切がなく、重大事故も起こりにくくなっている。また、京王の他の路線と比べて駅が広く、エレベーターなどのバリアフリー設備も充実している。

以前は調布駅で相模原線と京王線は平面でY字形に合流・分岐していた(厳密には相模原線上り線と京王線下り線が平面交差していた)。そのため、同駅がダイヤ設定上のボトルネックとなっていたが、前述の通り柴崎 - 西調布・京王多摩川間の連続立体交差事業が完了し、調布駅は地下2層構造のホームとなり、ボトルネックが解消された。

京王永山 - 京王多摩センター間は小田急多摩線と併走する。小田原線の線路容量が逼迫していた小田急は、多摩線には一部をのぞき線内折り返し列車しか設定していなかったために、多摩ニュータウンから都心への旅客輸送は京王がメインルートとなっていた時代が長かったが、その後の小田原線の複々線化の進捗に応じて多摩線から都心へ直通する急行や多摩急行を設定し、競争力を高めている。

上述の申請路線免許により、橋本駅は相模中野方面への延伸を前提とした構造になっていて、延伸先の路線用地も所々に確保されていた。だがその後、延伸予定区間の路線免許は失効し、路線用地の多くは地元不動産会社に放出し、宅地開発されたり中規模程度までではあるもののマンション等の建造物が建てられたことから、現在の線路をそのまま延ばす形での今後の相模中野方面への延伸は難しいと見られている。神奈川県鉄道輸送力増強促進会議の要望書に対して、京王は上下分離方式での延伸に含みを残すものの「単独での建設はきわめて困難」と回答している。

脚注

  1. 『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、97ページ。
  2. 2.0 2.1 『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、14-15ページの京王電鉄関係者の発言より。
  3. 3.0 3.1 『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、121ページ。
  4. 酒井宗一郎『新編・多摩市の郷土史誌(古代〜平成8年)』 多摩市立図書館所蔵資料、平成15年発行、203ページ。
  5. 『小田急五十年史』小田急電鉄、昭和55年、489ページ。
  6. 『たまヴァンサンかん街づくり講座 多摩ニュータウン「鉄道計画史研究」』 多摩市立図書館所蔵資料、平成12年発行、ヒアリング記録27ページ。
  7. 7.0 7.1 『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、125ページ。
  8. 8.0 8.1 読売新聞(昭和46年5月21日)
  9. 『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、169ページ。
  10. 『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編- 草創期~中興期の夢と苦悩を知る』多摩ニュータウン学会、2010年、187ページ。なお、東京都が小中学校の新設費用を無償で負担すとことになったことで、多摩市内には多くの小中学校が設置された。これらは現在「少子化」ということで廃校が進められ、借地にしたり売却することで新たな土地利用が進んでいるが、ある意味でこの時に多摩市は将来の膨大な資産を無償で手に入れたとも言われている。
  11. 北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、116,175ページ。
  12. 12.0 12.1 「多摩ニュータウンの人口・世帯数の推移」『多摩ニュータウン開発事業史-通史編-』UR都市機構、平成18年、270ページ。
  13. 『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、98 - 99ページ。
  14. 倉持順一「多摩ニュータウン建設にともなう京王相模原線敷設問題」『多摩ニュータウン研究 No.9 2007』多摩ニュータウン学会、2007年、57-64ページ。
  15. 15.0 15.1 15.2 『京王電鉄五十年史』京王電鉄、平成10年、142ページ。
  16. 『多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業誌』東京都、平成17年、19ページ。
  17. 『たまヴァンサンかん街づくり講座 語り継ぐ多摩ニュータウンの計画論』 多摩市立図書館所蔵資料、平成9年発行、98ページ。
  18. 北條晃敬『多摩ニュータウン開発の全貌』多摩ニュータウン歴史研究会、2012年、204ページ。
  19. 19.0 19.1 2月22日、京王線・井の頭線のダイヤを刷新しますPDF  - 京王電鉄、2012年11月5日、2012年11月5日閲覧。
  20. 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 平成23年度 京王電鉄株式会社への要望書PDF 
  21. 京王線・井の頭線全駅で「駅ナンバリング」を導入します。PDF  - 京王電鉄、2013年1月18日、2013年1月19日閲覧
  22. 市政への提案の回答 平成24年4月 3. まちづくり・住環境に関すること
  23. テキスト版広報いなぎ・平成19年5月15日号1面

関連項目