「小林繁」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(関連項目)
 
164行目: 164行目:
 
[[Category:1952年生]]
 
[[Category:1952年生]]
 
[[Category:2010年没]]
 
[[Category:2010年没]]
 +
[[Category:画像が多い記事]]

2011年9月3日 (土) 16:29時点における最新版

小林繁

小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、元プロ野球選手投手)、タレント野球解説者プロ野球指導者。2009年より北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチを務め、2010年からは一軍投手コーチを務めることになっていた。中学生硬式野球チーム『オールスター福井』の総監督。マネジメント事務所はトゥルーマサ

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1972年(昭和46年)巨人の入団会見で笑顔を見せる小林繁氏

小学校時代にソフトボール、中学で軟式野球を経験。由良育英高校(現:鳥取中央育英高校)から社会人野球全大丸(大丸神戸店勤務)を経て、1971年ドラフト6位で読売ジャイアンツ(巨人)に指名されたが、「大丸の一員で都市対抗野球大会に出場したい」という思いがあった為、その年は入団を保留。

1972年に全大丸に1年残留してプレーし、都市対抗野球への出場も果たしたことから、その年(1972年)のドラフト会議前に巨人に正式入団した。

現役時代[編集]

巨人・川上哲治監督の目に留まり、1973年のシーズン終盤にいきなり一軍昇格。2年目の1974年に8勝を挙げ、堀内恒夫高橋一三の後継者として頭角を現す。低い重心の独特の投球フォームから鋭い変化球で打者を詰まらせるサイドスロー投手として活躍した(ダイナミックに首を振り回すため投球時に帽子がよくグラウンドに落ちていたが、本人はこれを調子の良い証としていた)。1976年から2年連続で18勝を挙げ、エース投手として優勝に貢献した。1977年沢村栄治賞(沢村賞)を獲得。

1978年11月に起きた『江川事件』(『空白の一日』の言葉で知られる)の犠牲となる形で、1979年2月に江川卓との交換トレードで阪神タイガースに移籍(詳細は当該項を参照のこと)。移籍1年目は22勝で最多勝利、2度目の沢村賞を獲得。特に古巣・巨人に対しては8勝0敗の成績で神がかり的な強さを発揮し、巨人キラーとして活躍、セーフティバントを狙って左打席に立つなど気迫を見せた。また、巨人時代の1976年から1983年まで8年連続で2桁勝利を記録した。

1982年オフ、突然「来年15勝できなければ野球をやめる」と宣言。翌1983年は13勝に終わり、肩の故障で思うような投球ができないとして、31歳で引退した。同年6月25日中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)において、9回二死の場面で大島康徳に投じたシンカーを同点2ラン本塁打され、これが引退を決意させる。「今まで抑えてきた球を打たれ衰えを感じた」という[1]

  • 1982年の横浜大洋ホエールズとの開幕戦において、打者高木由一への故意四球(敬遠)が暴投となったせいでサヨナラ負けを喫している。「敬遠暴投によるサヨナラ負け」は、1952年金田正一が記録して以来、2例目であった。このことから、「暴投サヨナラ小林」と野次られるようになった(但し、この年に小林が記録した暴投はこの1つだけ)。現役時代の背番号は巨人、阪神時代ともに「19」が一般的に知られている。

引退後[編集]

1974年(昭和49年)巨人時代の小林繁のピッチング

引退後は1984年から1996年までTBS、その後朝日放送野球解説者を務め、TBS解説者時代にはスポーツキャスターとして『JNNスポーツチャンネル』、引き続き『筑紫哲也ニュース23』の初代スポーツキャスターを務めるなど才能を発揮。その他にはタレントとして『料理天国』の司会、『地球発19時』(毎日放送製作)のナビゲーターとしても活躍した。さらに俳優として『ビートたけしの学問ノススメ』 (TBS) で体育教師役を演じ、『木曜ゴールデンドラマ』(読売テレビ)の『あなたは妻を救えるか』にも出演。

1995年7月、第17回参院選に巨人時代の監督・川上の薦めで比例代表区から出馬(さわやか新党)、落選している。

1997年から2001年まで大阪近鉄バファローズ(1998年まで近鉄バファローズ)の投手コーチを務めた。当時の監督の梨田昌孝・打撃コーチの真弓明信と3人で「男前三人衆」として売り出され、モロゾフのイメージキャラクターも務めた。2001年にはリーグ優勝したがチーム防御率が5点台であり、責任を取るとして辞任した。辞任後の2003年に経営していた飲食店が破綻し、自己破産するも翌2004年には免責決定と同時に復権している。

2006年には、自分の半生についての手記を東京スポーツに約1ヶ月にわたり連載した。その手記によると、「空白の一日の事件の時は、まさかあの球界の紳士と言われた巨人があんなことをするとは思わなかった。だが、不思議と自分を育ててくれた巨人に対しては恨む気持ちはなかった」と語っている。

2007年、韓国・SKワイバーンズで二軍投手コーチを務めた。また、日本酒メーカー『黄桜』のCMで、江川と初共演を果たす。このCMのキャッチコピーは和解の酒であった。同年10月11日からこのCMの放映が開始され、大きな反響を呼んだ。また、2008年から、近鉄時代の同僚梨田の個人事務所「トゥルーマサ」にマネジメントを受ける。

2008年11月8日北海道日本ハムファイターズ二軍投手コーチに就任し、7年ぶりの日本球界復帰。2010年のシーズンより一軍投手コーチを務めることとなっていた。

2010年1月17日福井市内の自宅で「背中が痛い」と体調不良を訴え、福井県立病院に救急搬送された。しかし容態が急変し、午前11時頃に心不全[2]もしくは心筋梗塞[3]のため死去した。 (2010-1952)+((1-11)*100+(17-14)>=0)-1歳没。

小林の急死の知らせに、現役時代の上司だった長嶋茂雄を始めとする球界関係者がコメントを発した[4]

江川事件とその後[編集]

1979年(昭和54年)阪神移籍、入団発表で阪神・小津球団社長と握手する小林繁

小林は1979年春季キャンプ前日の1月31日、キャンプ地・宮崎市へ向かう直前の空港で巨人のフロントに呼び止められ、当時阪神の選手となっていた江川との交換トレードを告げられた。記者会見で小林は「野球が好きだから、阪神にお世話になります」と気丈なコメントを残している。

移籍1年目の1979年こそ巨人相手に無類の強さを見せた小林であったが、翌1980年からは一転して巨人を苦手にし、引退する1983年までの4シーズンで巨人戦5勝15敗とほとんどいいところがなかった。デビュー戦で阪神に打ち込まれたがその後阪神を得意とした江川とは対照的であった(江川の阪神戦の戦績は36勝18敗)。

小林は、その江川とは『江川事件』以来、一度も口をきかなかった。江川の引退時、スポーツニュースを担当していた小林はこのニュースを自ら伝え、「あれだけの騒ぎを起こしたんですし、もう少し頑張ってほしかったですね。僕は当事者でしたからね」と、江川に対しての心中を述べた。また、『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)に出演した際、「本音としては仲良くなりたくはないですね」と発言していた。

しかし、2007年になって、黄桜のCMで共演する事になり、江川は「僕が原因を作ったので申し訳なく思っていた」と、小林は「私たちを知っている世代が、子供たちに野球の話をできるきっかけになれば」「ストレートに心情を言えない人で僕と似ている」と語った。このCMのオファーを受けた際、江川は「小林さんがOKなら」と回答、小林は「江川が入るなら、出るのは俺しかいないと思っていた」との理由から共演を受諾したという[5]。CMの撮影は66分間にも及んだ。江川が謝罪した際には「もう風化してるよ」や「謝ることないじゃん」など温かい言葉をかけた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

1973 巨人 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 40 11.1 5 0 2 0 0 6 1 0 0 0 0.00 0.62
1974 44 9 2 1 0 8 5 2 -- .615 538 130.1 125 10 29 5 4 72 2 0 48 35 2.42 1.18
1975 28 12 3 1 1 5 6 0 -- .455 456 106.1 103 8 32 5 14 42 0 0 50 39 3.30 1.27
1976 43 29 7 1 1 18 8 2 -- .692 868 217.1 192 30 47 5 9 129 0 0 77 72 2.98 1.10
1977 42 30 11 3 0 18 8 7 -- .692 897 216.1 197 25 65 9 4 155 0 2 89 70 2.91 1.21
1978 43 31 5 0 2 13 12 2 -- .520 805 191.1 176 23 73 11 12 130 3 1 97 87 4.09 1.30
1979 阪神 37 36 17 5 2 22 9 1 -- .710 1129 273.2 227 23 75 7 15 200 4 0 101 88 2.89 1.10
1980 37 34 21 1 0 15 14 0 -- .517 1127 280.1 241 36 57 3 20 179 1 0 104 94 3.02 1.06
1981 31 30 17 2 2 16 10 2 -- .615 937 230.0 202 15 53 7 14 156 0 1 82 77 3.01 1.11
1982 27 25 4 2 1 11 9 0 -- .550 688 163.1 154 17 47 3 8 95 1 0 72 62 3.42 1.23
1983 35 32 9 3 2 13 14 1 -- .481 890 209.0 202 31 60 3 11 109 0 0 116 94 4.05 1.25
通算:11年 374 268 96 19 11 139 95 17 -- .594 7564 2029.1 1824 218 540 58 111 1273 12 4 836 718 3.18 1.16
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 40 (1973年)
  • 19 (1974年 - 1983年)
  • 70 (1997年 - 2001年)
  • 79 (2009年)

タイトル・表彰[編集]

個人記録[編集]

エピソード[編集]

1980年(昭和55年)巨人の江川卓と対戦した小林繁
  • 神戸大丸勤務時代は呉服売り場に属していたため、反物の扱いには心得がある。
  • 大の料理好きで味にうるさい事で知られていて、2000年のオフシーズン中、『料理バンザイ!』(テレビ朝日)に料理研究家の夫人とともにゲスト出演した事がある。
  • 一方で、食べ物の好き嫌いが多く、ニンジンキャベツが大嫌いであったという。ただし、現役時代は非常にスリムな体型であったが、江本孟紀の証言によると小林は筋肉質で、まるで針金を何重にもより合わせたような鍛え上げられた体だったと言う。やはり偏食家として有名なイチローとよく似た話である。
  • OB戦では阪神OBとして出場する場合(江川出場時の巨人vs阪神)が多いが、巨人OBとしての出場(世界少年野球大会日米OBオールスター等)もある。

出演[編集]

いずれも過去のものである。

[編集]

1979年(昭和54年)甲子園での小林繁
  • 亜紀子(1979年)オリコン最高41位、キャニオンレコードによると発売1か月で10万枚突破[6]。B面は「夢に揺られて」。
  • 昨日の女(1980年)
  • まわり道(1980年)
  • しのび逢い(1982年)
  • ゆれて赤坂ナイトパブ(小林繁&よしえ、1984年)B面は「可愛いあいつ」。

脚注[編集]

  1. 自著『男はいつも寂しいヒーロー』より。
  2. 元巨人軍:小林繁氏が死去 時事通信 2010年1月17日閲覧
  3. 小林繁さん急死=57歳 巨人、阪神の元投手 毎日新聞 2010年1月17日閲覧
  4. 小林繁さん死去 スポーツ報知 2010年1月17日閲覧
  5. デイリースポーツサンケイスポーツスポーツニッポンのウェブ配信記事より。
  6. 【12月19日】1979年(昭54) 阪神・小林繁、オフはステージで“ショー利”投手?スポーツニッポン。(2009/10/14閲覧)

関連項目[編集]

小林繁の画像[編集]

1979年(昭和54年)フリー打撃で初の“申し合い”を行った掛布(右)と小林
1985年 最強助っ人ランディ・バースと会話をする小林繁
1980年(昭和55年)ダイビングキャッチで1回転したが、惜しいところで逃す阪神・小林繁氏=甲子園球場
2010年日本ハムで投手コーチだった小林繁=2010年1月16日東京ビックサイトにて