福本亀治
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福本 亀治(ふくもと かめじ、生年不詳 - 没年不詳)は、日本陸軍の軍人、憲兵将校。陸士30期。1926年に憲兵司令部付となり、軍派遣学生として東京帝大法学部を卒業した後、1931年に憲兵司令部軍事特別高等警察及思想関係主任となる。1935年には東京憲兵隊特高課長として永田軍務局長事件、二・二六事件関係の調査・取り調べに関与。1937年から兵務連絡機関、後方勤務要員養成所の創設に携わり、1940年に陸軍中野学校の教育部長となった。1944年に漢口憲兵隊隊長となり、漢口事件に関与。戦後、同事件に関してアメリカ軍上海裁判で終身刑の判決を受け、1958年まで収監された。
経歴[編集]
以下、特に断わりのない場合の出典は、中野校友会 (1978 20-21)。
- 陸軍士官学校29期卒業生。
- 1917年(大正6)12月、陸軍騎兵少尉
- 1923年(大正12)8月 憲兵中尉任官後、半年間、旅順の関東憲兵隊本部に勤務。その間、ロシア革命後の実状調査のため、在旅順の海・陸駐在武官と共にハルピンに滞在。
- 1924年(大正13)2月、久留米分隊長
- 1926年(大正15)3月、憲兵司令部付、憲兵副官
- 1928年(昭和3)4月、軍派遣学生として東京帝大法学部に入学。
- 1931年(昭和6)3月、同校卒業。同年4月から、憲兵司令部、軍事特別高等警察及思想関係主任(1934年8月まで)
- 1934年(昭和9)8月、憲兵少佐、赤坂憲兵分隊長。
- 1935年(昭和10)8月、東京憲兵隊特高課長。永田軍務局長事件、二・二六事件関係の調査、取り調べに関与。
- 1936年(昭和11)11月、陸軍省兵務局付。当初は兵務課、後に防衛課に勤務。
- 1937年(昭和12)3月、憲兵中佐。同年春、兵務局長・阿南惟幾少将の命令で、秋草俊中佐、曽田峯一大尉とともに科学的防諜機関について研究し、兵務連絡機関を設立[1]。
- 同年暮頃、陸軍省軍事課長・田中新一大佐の招請を受け、秋草中佐、岩畔豪雄中佐と共に、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)の建設委員に任命され、設置・教育に従事[2]。
- 1940年(昭和15)8月 陸軍中野学校令制定に伴い、教育部長となる。
- 1941年(昭和16)8月、憲兵大佐。同年10月、中野学校幹事となる。
- 1944年(昭和19)4月、中支派遣憲兵隊司令部に勤務。同年5月、漢口憲兵隊(少将)隊長。
- 同年12月、漢口警備軍第34軍司令官の命令により、漢口事件発生。
- 1945年(昭和20)4月、第6方面軍憲兵隊司令官に補せられる。漢口憲兵隊長と兼務。
- 同年8月、終戦。同年11月、上海へ護送される。
- 1946年頃、アメリカ軍上海裁判で、漢口憲兵隊本部時代の漢口事件の責任を問われ、終身刑の判決を受ける[3]。
- 1946年(昭和21)5月、南京へ護送される。
- 1947年(昭和22)4月、「国民軍法廷」(中華民国南京軍事裁判?)で無罪判決を受ける。
- 1947年7月、巣鴨に送致される。
- 1958年(昭和33)12月、釈放。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 中野校友会 1978 19,20
- ↑ 中野校友会 1978 20,22-23
- ↑ 坂 1967 6。判決の時期は未詳。同事件で死刑判決を受けた他の被告人の死刑が1946年4月22日に執行されている。