昭和飛行機工業
昭和飛行機工業株式会社 SHOWA AIRCRAFT INDUSTRY CO., LTD.
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種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 東証2部 7404 ~上場中 |
略称 | |
本社所在地 | 196-8522 東京都昭島市田中町600 |
電話番号 | 042-541-2111 |
設立 | 1937年6月5日 |
業種 | 輸送用機器 |
事業内容 | 特装車・航空機内装備品など |
代表者 | 八木順之 |
資本金 | 49億5千万円 |
売上高 | |
総資産 | |
従業員数 | |
決算期 | |
主要株主 | |
主要子会社 | |
関係する人物 | |
外部リンク | http://www.showa-aircraft.co.jp |
特記事項: |
昭和飛行機工業株式会社(しょうわひこうきこうぎょうかぶしきがいしゃ、英社名はSHOWA AIRCRAFT INDUSTRY Co., Ltd. (SAIC))は、三井系の機械メーカー。社名の航空機内装備品のみならず、タンクローリーやバルク車などの特装車、給食カートや介護入浴装置などのライフサポート機器、ハニカム構造体などを手掛ける。本社は東京都昭島市田中町600番地。
沿革[編集]
歴史[編集]
1937年(昭和12年)6月5日、元、三井合名理事長團琢磨の長女「めい」の夫である牧田環(初代社長、三井鉱山会長等も歴任。工学博士)の尽力により昭和飛行機工業株式会社が設立される。牧田環は、現在の四條畷学園小学校・中学校・高等学校の創立者、牧田宗太郎の弟であり、牧田宗太郎と井上幸治郎(日本簡易火災保険(現在の富士火災)の初代社長)は親交が深かったため、牧田環は、四條畷学園や日本簡易火災保険の設立、その後において色々な影響を及ぼした。
さて、当時の日本航空機業界は、すでに欧米に匹敵する優秀な軍用航空機を制作していたため、昭和飛行機はこれを追従するのではなく、日本が立ち遅れていた輸送機の製作こそが使命と捉え、当時のベストセラー機であったダグラスDC-3に目を付け、その国産化(ライセンス生産)を目指すこととなった。
航空機を製造するあたり、飛行場を併設した工場が必要であり、それには広大な土地が必要だった。検討した結果、北多摩郡昭和町、拝島村(以上現昭島市)、砂川村(現立川市)の3町村にまたがる土地に、航空機製造工場である東京製作所を作ることを決め、工場および飛行場の建設に着手し、1938年(昭和13年)に稼働を始めた。稼働開始に合わせて、通勤者の便に配慮して、青梅線に新駅の開設の認可をもらい、昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担して、昭和前駅(現昭島駅)が開設された。
工場は稼働したものの、DC-3の国産化には困難を極め、実現に3年の月日を費やすこととなる。DC-3国産化に成功し、順調に量産化を始めた頃、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する。1940年(昭和15年)には、日本海軍にDC-3を零式輸送機として制式採用されたことにより、終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造した。戦時中には他にも、愛知航空機の九九式艦上爆撃機や、川西航空機の紫電改などもライセンス生産した。
1945年(昭和20年)の敗戦とGHQ占領により、航空機事業が禁止され、この間に会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなる。占領終結後の1957年(昭和32年)から始まった民間輸送機YS-11、続くC-1計画にも参加し、分担生産を行った。現在開発中のC-X 次期輸送機・P-X 次期哨戒機でも分担生産に参加している。
現在、航空機事業は主力ではなく、特殊車両(タンクローリーなど)やライフサポート機器、ハニカム構造体などの製造が中心である。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]