徳川家継
徳川 家継(とくがわ いえつぐ、宝永6年7月3日(1709年8月8日) − 正徳6年4月30日(1716年6月19日))は、江戸幕府の第7代将軍(在職:正徳3年4月2日(1713年4月26日) - 正徳6年4月30日(1716年6月19日))。
父は第6代将軍・徳川家宣。母は側室の勝田著邑の娘・お喜世の方(月光院)。4歳で将軍に就任し、幼少故に幕臣の新井白石らの補佐を受けた。8歳で早世し、第2代将軍・徳川秀忠の男系で継承されていた徳川将軍家の家系はここに絶えた。官位官職は正二位・権大納言、内大臣兼右近衛大将。贈正一位・太政大臣。幼年故に結婚はしていないが八十宮吉子内親王と婚約していた。兄弟に豊姫、夢月院、家千代、大五郎、虎吉。幼名は世良田 鍋松(せらた なべまつ)[1]。
生涯[編集]
将軍継嗣争い[編集]
家宣は子供運に恵まれず、正室の近衛基熙の娘・熙子との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)10月に早世し、元禄12年(1699年)9月に生まれた夢月院(即日早世のため名前が伝わっていない)は即日早世し、宝永4年(1707年)7月に側室のお古牟の方(法心院)との間に生まれた家千代は同年9月に早世、宝永5年(1708年)12月に側室のお須免の方(蓮浄院)との間に生まれた大五郎は宝永7年(1710年)8月に3歳で早世した[2]。家継はこのような中で家宣が第6代将軍になってから2ヶ月後の宝永6年7月3日、側室のお喜世の方(月光院)との間に4男[3]として生まれた[2]。正徳元年(1711年)8月には側室のお須免の方との間に大五郎が生まれたが、これも11月には早世した[4]。
このように家宣が将軍職にある時点で存命していたのは3男の大五郎と4男の鍋松(家継)だけだった[3]。そのため、この2人が次期将軍候補として幕閣や大奥を巻き込んで継嗣争いを繰り広げる[3]。大五郎の生母であるのお須免の方は園池季豊の娘であった[3]。彼女は京都の出身で、また柳沢吉保の後押しもあって家宣の正室である熙子とは緊密な関係にあった[5]。対して家継の生母であるお喜世の方は有力な幕臣の後押しも無く、父親は加賀藩の浪人上がりの僧侶と対した家系では無かったが、家宣からその美貌を愛されて側室の中では最も愛されたという経緯があった[5]。お喜世の方は柳沢吉保に対抗するため、側用人の間部詮房を後ろ盾にした[5]。宝永7年に大五郎が死去したため、継嗣争いは鍋松派が勝利した[5]。
家宣は正徳2年(1712年)に病に倒れた。『折たくの柴の記』によると家宣は死期を悟って9月23日に新井白石を呼んで継嗣問題について2つの案を出した[6]。ひとつは尾張藩の徳川吉通に将軍職を譲り、家継の処遇は吉通の判断に任せる事、もうひとつは家継に将軍職を継がせて吉通を後見人として幕政を代行させるというものだった[7]。しかし白石はこの両案にいずれも反対した[7]。ために家宣は家継を将軍とし、もし家継が早世したら吉通の子の徳川五郎太か徳川吉宗の子の長福丸(後の徳川家重)にして、吉通か吉宗に後見させるように遺言した[7]。家宣が10月に死去すると、諸大名や幕閣の多くは成人の吉通の後継を望む者も少なくなかったが、白石は吉通を将軍にした場合に付いて来る尾張藩家臣と幕臣の政争を恐れ、間部詮房も白石に同調して家継の成長が見込めずに早世した場合に尾張から新将軍を迎えるという妥協案を出して反対意見を抑えた[4]。こうして白石と詮房の後見の許、家継の後継が決定した。
正徳3年(1713年)3月26日、正式に名を家継と改めた。この際の家継の名乗りは白石が選んだものと伝わる。4月2日に将軍宣下の大礼を行なって第7代将軍に就任した[4][1]。
夭逝[編集]
家継が幼少のため幕政は安定せず、また幕府内で権力闘争もあり、正徳4年(1714年)に絵島生島事件というスキャンダルが発生した[4]。これは家継の生母である月光院とそれに連なる詮房、白石ら家継近親・側近グループと家宣の正室である天英院と結ぶ土屋政直・井上正岑・久世重之・阿部正喬・松平信庸・戸田忠昌ら譜代大名・老中グループの権力争いが表面化した事件である。この事件で月光院が権力から一歩引かざるを得なくなり、また白石や詮房らも事件を黙認せざるを得なくなるなど家宣に取り立てられた側近グループは以前と比べて確実に権力が衰えていた[8]。そして幕臣や諸大名の中には白石や詮房に反発して故意に出仕しなかったり、職務を遅らせたりと幕政が停滞した[4]。
家継自身は幼少ながら「生来聡明で父に似て仁慈の心があり、立居振舞も閑雅なり」と『徳川実紀』に紹介されているように利発で聞き分けがよく、謁見した諸大名からも感心されて涙を流したというほどだった[4]。家継は私生活では間部詮房を父のように慕ったと『徳川実紀』に紹介されており、詮房が家継の代参として寺詣りなどを行なった際には自ら出迎えた話なども紹介されている。また大老・井伊直治も頼りにして直治の官職・掃部頭から「掃部爺」と呼んだと伝わり、食事も共にしたという話が伝わる[8][9]。
しかし家継は病弱でたびたび病に倒れて成長は見込めそうに無かった[6]。正徳5年(1715年)1月15日に家継は病に倒れ、この際は3月半ばに回復する。7月13日には再び病に倒れ、このように頻繁に病床に臥したため幕府の儀式などに参加する事はできなかった[9]。
幕政は先代からの新井白石による正徳の治が続けられ、正徳4年(1714年)には白石により正徳金銀が発行されて金貨・銀貨の品位を慶長金銀に戻された[9]。
正徳5年(1715年)9月29日に八十宮吉子内親王と婚約する[8]。
正徳6年(1716年)3月、家継は風邪をこじらせて危篤になった[4][10]。このため次期将軍をめぐって月光院と詮房は結託して吉宗を、近衛熙子(天英院)は尾張藩の徳川継友を推して対抗した[10]。月光院は水戸藩の徳川綱條の支持を取り付けて吉宗を家継の後見人にした[11]。直後の4月30日、家継は8歳で死去し、後見人の吉宗が横滑りして第8代将軍に就任した[4][11]。
吉宗は家継からみてはとこ大おじ(祖父・綱重とはとこの関係)にあたる。
戒名は有章院殿照蓮社東譽徳崇大居士。墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺。肖像画は長谷寺に収められている。
経歴[編集]
※日付=旧暦
偏諱を受けた人物[編集]
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 徳川・松平一族の事典P207、工藤寛正編、東京堂出版、2009年
- ↑ 2.0 2.1 徳川十五代P72、実業之日本社、1996年
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 徳川十五代P70、実業之日本社、1996年
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 徳川十五代P73、実業之日本社、1996年
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 徳川十五代P71、実業之日本社、1996年
- ↑ 6.0 6.1 徳川十五代P74、実業之日本社、1996年
- ↑ 7.0 7.1 7.2 徳川十五代P75、実業之日本社、1996年
- ↑ 8.0 8.1 8.2 徳川・松平一族の事典P208、工藤寛正編、東京堂出版、2009年
- ↑ 9.0 9.1 9.2 徳川歴代将軍事典P367、大石学編、吉川弘文館、2013年
- ↑ 10.0 10.1 徳川十五代P76、実業之日本社、1996年
- ↑ 11.0 11.1 徳川十五代P77、実業之日本社、1996年
関連項目[編集]
- 海舶互市新例 - 家継の代に制定された。
家継が登場する作品[編集]
- テレビドラマ
- 映画
- 漫画
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