広島抗争
広島抗争(ひろしまこうそう)は、1950年頃から1972年に掛けて広島で起こった抗争の総称。警察庁による名称は広島けん銃抗争事件。狭義には映画「仁義なき戦い」のモデルとなった第二次広島抗争(1963年4月17日~1967年8月25日。広島代理戦争とも呼ばれる)を示すことがある。
広島抗争と呼ばれるものには第二次の他、第一次広島抗争(1950年頃)と第三次広島抗争(1970年11月~1972年5月)が広く知られるが新井組粛清、血の粛清と呼ばれる青木組粛清の内部抗争を含め5次と数える向きもある。 ここでは、第一次から第二次までについて言及する。
第一次広島抗争と広島ヤクザの系譜[編集]
第一次広島抗争は戦後の広島市の博徒・岡 敏夫(岡組組長)の勢力拡大に伴う地域覇権争い [1]。
終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で、1950年に岡組舎弟・打越信夫(打越組組長)が、対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で勢力を伸ばす結果となった。
戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では岡の勢力が拡大し、 その中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎、服部 武などの勢力が台頭した。 また呉市では、山村辰雄(山村組組長)の勢力が拡大し、若頭・佐々木哲雄、若衆・美能幸三らが台頭していた。
岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて、岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく、山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった。 この打越の縁組は後に抗争を、いわゆる「仁義なき戦い」へと導く一つの要因となった。
岡 敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出[編集]
1960年頃から岡 敏夫の健康問題から後継争いが起きる。 最有力候補は打越信夫だが、網野光三郎、服部 武も実力は伯仲していた。 そのような折の1961年5月、美空ひばりの公演のため三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一(山健組組長)が 広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを有利に進めようとした打越は、 山本と美能幸三の仲介により山口組舎弟・安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した。
広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡は この盃を嫌い、1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した。 かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し山陽最大の勢力を持つようになった。 また、岡組勢力も山村組に組み込まれる形となった。
当然この事態は打越側に衝撃を与え、 同年6月には打越の舎弟と山村組の縁戚の間で抗争が起き、その手打ちのため打越は指を詰めた。 打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した。
当時は山口組側にも思惑があった。 1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り、山陰においては1961年に本多会の松山芳太郎を殺害し、鳥取に進出。 翌年には その鳥取に進出していた直参の小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし 山陰進出を着々と進めていた。 山陽においては山口組若頭・地道行雄(地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる現金屋の内紛に介入して熊本 親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった。
このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた山口組にとって 山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった [2]。
そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した。 打越は、1962年9月に田岡の舎弟となり、 打越組が山口組の配下に入り打越会と改称することになった。
打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は、 神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした。
山口組の本格的な介入[編集]
この時点で打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、山口組と本多会という大組織の代理戦争の様相を呈するようになった。 山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。
まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の山口英弘(山口(英)組組長)を絶縁とする一方、指を詰めて手打ちをしたことにより現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部 武、原田昭三らと打越信夫との兄弟縁を復縁させた(山村組勢力の取崩しを図った)。
山村組内でも打越を通じて山口組と懇意にしだした美能幸三を破門とし、 その美能は打越陣営に参画し山村と対決姿勢を鮮明にした。
このように広島の勢力図が打越会―山口組派と反山口組の山村組派とに分かれる中、1963年4月17日に美能組幹部の 亀井 貢が山村組系組員に射殺され戦いの火蓋が切って落とされた。
第二次広島抗争の勃発と激化[編集]
亀井 貢の葬儀後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた。 その報復を待たずして さらに追い討ちを掛けるように 1963年5月26日には打越会を絶縁された山口英弘の若衆が 打越会の組員を殴打する事件が起きた。 直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲、 路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した。
打越側の報復は打越信夫の手際の悪さから上手く組織が機能せず、 当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。
業を煮やして打越を見限った山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の山口組系組員を広島へ派遣した。 しかし広島県警が大量動員を掛けて抗争の首謀者である美能を7月5日に逮捕した。美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに帰らざるを得なかった。 その際、報復に消極的な打越に対して山本は激怒し、「われはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎(打越はタクシー会社を経営していた)!!」と怒鳴りつけ、 山口組と広島のパイプを美能組にシフトした。
1963年9月19日に ようやく腰を上げた打越会が山村組幹部・原田昭三宅をダイナマイトで爆破、 さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。
山村組の服部 武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し、山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた(玄関のガラスも割れた)。 名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山村組の仕業と思われていた。
山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し、1964年5月に政治結社共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った。
警察の介入と抗争終結[編集]
1963年9月 堪り兼ねた警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した。 1965年6月9日、山村は引退を声明し、広島県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた。 解散した打越会の元組員に危害を及ぼさないための共政会、打越会の手打ちが1967年8月25日に 実施された。翌26日、打越信夫は弁護士とともに広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。 こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し、 中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。
山口組は実害が無かった(被害は全て打越会に出た)ものの、 結果的に広島進出に失敗し進出の機会が当分閉ざされることとなった。
参考文献[編集]
この事件については毎日新聞社の『組織暴力の実態』、広島県警の『暴力許すまじ』、中国新聞社の『ある勇気の記録』、美能の手記を編纂した飯干晃一の『仁義なき戦い』がある。 また向江璋悦が山口組組長宅ピース缶爆破事件で起訴された山村、服部らを弁護した『無罪の記録』がある。
脚註[編集]
- ↑ 岡組は戦後の新興団体であり、客のアゲサゲの修行を積み業界の信用を得た上で「カッチリとテラ銭が上がってくる賭場」を経営する金筋のヤクザではなく、闇市に割拠した三国人と手を組んだ被差別部落出身者を中核とする団体である。地方都市の需要に応じて何でもやるのが商売であり、ここから闇市での利権を巡り的屋の村上組と闘争することとなる。
- ↑ このような意見が、「仁義なき戦い」以降形成されているが、基本的に中国ではなく関西圏、近畿圏を対象としていた山口組が、小領主が割拠している狭く小さい中国筋を力で押していく方針であったかどうかは疑問があり、現在でもなお「神戸から広島に進出したのではなく尾道筋まで勢力圏を伸ばしていた合田一家への対抗策であった」とする声もある。この背景には同一家の総長・合田幸一が山陽道の親分衆から畏敬された存在である点、中国・四国の組の殆どは その内部に多くの派閥(背景には被差別部落の問題があるとされる)を抱えていたため統制をとるのが困難だった点、が指摘される。