平国香
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平 国香(たいら の くにか 平 國香、生年未詳 - 承平5年(935年)2月)は、平安時代中期の武将。初名は良望(よしもち)で後に国香に改名[1]。高望王(平高望)の長子で弟に良兼、良将、良繇(良孫とも)、良文、子に貞盛、繁盛、兼任らがある。常陸国を本拠とし、桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされ、常陸平氏や伊勢平氏の遠祖にあたる。常陸大掾、鎮守府将軍。
生涯[編集]
父の高望王に付いてに坂東へ移り、筑波山西麓の東石田を本拠地とした。源護の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継いだものと推測されるが定かではない。『今昔物語集』によれば、弟の良将の死後、その遺領を良兼ら他の兄弟と共に勝手に横領・分割し、それにより良将の子の将門と対立するようになったとされる[2]。源護・扶親子らと甥の将門が争った際には舅の護に加勢して承平5年(935年)将門と戦い、石田館で敗死した(この争いへの参加を国香は本意でなかったと見る説もある)。
京都で左馬允在任中にこの報告を受けた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国し、一時は旧怨を水に流し将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、平将門の乱の発端となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]