高畠通敏

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高畠 通敏(たかばたけ みちとし、1933年 - 2004年

経歴[編集]

東京大学法学部に進学[1]。担当教官は堀豊彦だった[1]

1954年に、鶴見俊輔が『思想の科学会報』などで参加を呼びかけた「転向研究会」に参加[2]

声なき声の会の事務局長を務めた[3]

立教大学助教授[4]

1962年、天皇制特集号廃棄事件の後、思想の科学研究会の事務局長となり、新会社・思想の科学社を立ち上げて第5次『思想の科学』を刊行した[5]

  • 思想の科学社発足で多忙になったため、「声なき声の会」の事務局と、機関誌「声なき声のたより」の編集は、1961年12月から横山貞子が担当し、1963年6月以降、再び高畠が担当した[6]

1965年、3月、米軍の北ベトナム爆撃を受けて、ベ平連の発足を呼びかけた[7]

1974年1月から1975年12月まで、鶴見俊輔が『朝日新聞』の「論壇時評」を担当したときに、政治学の助言者を担当した[8]

2004年没[9]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]