高田登美雄
高田 登美雄(たかた とみお)は部落解放同盟大阪府連合会吹田市光明町支部長。全日本同和会出身。
1969年6月4日、部落解放同盟大阪府連の約300名と共に、府連の方針に批判的な部落解放同盟吹田支部と市当局の団交の席に乱入し、交渉を妨害。山本治雄市長に「今後は光明町支部を対象に同和事業の窓口を一本化せよ」と要求し、乱暴を繰り返した。市長がこれを拒むと、高田らはその日から市長宅を3日2晩にわたり包囲し、ガスや水道の元栓を締め、電話線を切断。さらに柵をのりこえて邸宅の中に侵入し、焚き火しながら池の鯉まで食らうという無法の限りを尽くした。そして、数百人の動員部隊は夜通し銅鑼や太鼓をうちならし、市長に窓口一本化を迫った。
このとき、府連副委員長の泉海節一は同盟員らに「警察は心配いらん。警察とは話がついとる。警察はわしらの味方や」と演説した。事実、市長が警察に通報しても「ガスはガス会社に、電話は電話局に、水道は市水道局に言ってくれ」といわれるのみで、とりあってもらえなかったという。
結局、市長は窓口一本化の要求をのまされ、さらに「解決金」名目で200万円を巻き上げられた。
1971年4月、吹田市長として革新統一候補の榎原一夫が着任すると、6月5日、高田らは府連書記長の上田卓三ら30余人とともに市長室に乱入し、「お前のような市長は2、3ヶ月でやめさせてやる」「7日の市会は開かれんようになるぞ」と脅迫。そして7日の市議会には600名の同盟員が市長室に乱入し、市会議員や市職員に暴行を加え、榎原市長を監禁。耳元にスピーカーをつきつけ「バカヤロー」「いてまえ、ブチ殺せ」などの罵声を浴びせかけた。こうして議会は流会となった。
その後も同盟員らが連日市役所に押しかけて業務を妨害したため、6月8日、榎原市長は吹田警察署に赴き、市役所から同盟員を排除するよう申し入れたが、そこにも府連幹部らが押しかけ、警察署長室を包囲して市長を閉じ込め、「署長室のドアを叩く蹴る、罵声をあげるなど、およそ、これが警察署内のできごとかと疑うばかりの光景」となった(榎原一夫「吹田市民のみなさまに訴えます」6月11日)が、警察は制止しなかった。
結局、6月29日、市庁舎が同盟員ら700名に占拠される中で市議会が開かれ、榎原は窓口一本化に同意する覚書を結ばされた。
その後、1972年9月27日にも高田は榎原を襲い、市長の首に腕をかけて引き倒し、馬乗りになって首を絞め上げ、全治10日間の怪我を負わせている(ことぶき保育園事件)。
関連項目[編集]
出典[編集]
- 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.128-132