漫画ブリッコ
注意 : この項目には未成年者の閲覧にふさわしくない記述・表現が含まれている可能性があります。不快に感じる方は閲覧をご遠慮ください。 |
漫画ブリッコは、1980年代に存在した成人向け漫画雑誌である。ロリコン漫画誌の草分けであると同時に、多くの才能を生み出したことでも知られる。
目次
解説[編集]
創刊[編集]
漫画ブリッコは、セルフ出版(発行)・日正堂(発売)(後に白夜書房の発行・発売)から刊行された雑誌で、1982年に創刊された。B5平綴じで、当初はごく普通のアダルト劇画雑誌であった。表紙が南伸坊、巻頭にはヌードグラビアが、内容は高橋春男の四コマと石井隆、羽中ルイ、中島史雄、富田茂などアダルト劇画で占められていた。
路線変更[編集]
しかし、販売不振に悩み、半年後の1983年に、編集者が東尾孝から大塚英志(読者コーナー等ではオーツカ某名義)と緒方(読者コーナーではおぐゎた名義、後にアリスクラブの編集にも携わる)に代わり、5月号より内容をよるリアルな絵の劇画から、劇画調であっても、より可愛い女の子の絵の書ける作家に変更した。表紙は南伸坊から谷口敬にに変え、ハードな絵柄の石井隆や富田茂などの連載を切り、よりソフトな飯田耕一郎、火野妖子、沢木あかねや大原彩生を入れた。さらに洋森しのぶ(後のひろもりしのぶ・みやすのんき)や寄生虫、藤原カムイなどを発掘した。また、高橋晴男、神保あつし等の四コマも切り、岡崎京子の独り言的なコーナーや中森明夫の東京おとなクラブJr.などを入れ、劇画雑誌のイメージを払拭した。同11月号からは表紙を少女マンガ的なかがみあきら(あぽ名義)に変更、劇画色を完全に払拭した。巻頭のヌードグラビアも廃し、完全にロリコン美少女マンガ誌に姿を変えた。それにより販売部数も上昇し、人気も高くなった。読者層は半数が十代だったという。
2大ロリコン誌[編集]
この売り上げ増加により2大ロリコン系漫画誌としてレモンピープルと並び称されるようになった。作家陣は専属というわけではなく、両誌で執筆していた作家もある。また、レモンピープルが同人誌の紹介に力をいれていたのとは対照的に、読者投稿欄を拡充し、イラストの投稿紹介などに力を入れ、時にはその投稿者にマンガを書かせ、掲載した。そこでは狂言回しとして編集者がそのキャラクターを露出することが多かったのもこの雑誌の特徴であった。また、岡崎京子や白倉由美などの女性作家による独りごと的なページも一つの特徴になっていた。また、当時発行されていたロリコン誌(メロンCOMIC、ハーフリータ、プチ・パンドラ、ロリコンHOUSE、アリスクラブ、ぺあ等)は殆どがB5またはB6の平綴じであり、両誌のフォロワーを自認するものであることが窺える。
おたく[編集]
83年6月号から3号にわたり、当時「東京おとなクラブ」の発行人であった中森明夫が、「『おたく』の研究」を連載した。コミックマーケットに集まるマニアのことを『おたく』と名づけた最初の文章である。その中でおたくを批判する内容の文章が掲載されたことが大きな波紋を呼んだ。 読者投稿コーナーにおいて、中森の文章をおたくに対する偏見であると批判した読者の投稿に対し(投稿自体はほんの数行の文章であった)、編集長の大塚英志が1ページ以上にわたる中森批判を展開した。その後中森は大塚により、本誌から追放されることとなる。 なお、現在は「オタク」とカタカナで表記されることの多いこの言葉は、当時はひらがなの表記であった。 カタカナによる表記が一般化したのは、1996年の岡田斗司夫のオタク学入門以降である。
姉妹誌[編集]
1984年にはほぼ同じ編集・作家メンバーで「いけないCOMIC」(発行・白夜書房)を創刊。1985年7月の6号まで発行された。
廃刊・後継誌[編集]
1986年に人気を保ったままに廃刊、編集者が交替したが、内容的にはそのまま漫画ホットミルクに引き継がれた。
漫画ブリッコから巣立った作家[編集]
漫画ブリッコは、寿命は短かったものの、その影響は大きかった。多くのロリコン系と言われる書き手を育てた。また、少女漫画の枠にはまらない女流若手を出した意味も大きい。読者欄はそのまま漫画ホットミルクに引き継がれ、この両誌の投稿欄からデビューした作家も多い。以下にこの雑誌でデビューした、あるいは最初期の活動を行った書き手を挙げる。