歩隲
歩 騭(ほ しつ、? - 247年)は、中国の後漢末期から三国時代の呉にかけての武将、政治家。字は子山(しざん)[1]。子は歩協、歩闡。孫は歩璣、歩璿。同族は歩夫人(孫魯班と孫魯育の母)。
生涯[編集]
徐州臨淮郡淮陰県(現在の江蘇省淮安市)の出身[1]。若い頃に戦乱の難を逃れて江南に住んだ。身寄りも頼るべき人もなく困窮し、広陵(現在の江蘇省揚州)の衛旌と同年齢のため仲が良かったため、2人で瓜を植えて生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、夜は経書やその解釈を諳んじて勉強した[1]。歩隲と衛旌は土地の顔役の下で生計を図ろうとした[1]。顔役の一味には無法者が多く、顔役は2人になかなか会おうとせず長い間待たせたため、衛旌は腹を立てて帰ろうとしたが歩隲が「今このまま帰って顔役に下手に出たくないという気持ちを示したりすれば、怨みを買うだけだ」と述べて止めた[1]。2人はかなり待たされてからやっと顔役に会うことができたが、その態度は横柄であった[1]。食事が出たが2人の物は余りに粗末で顔役の物は豪華だった[1]。衛旌は腹を立てて食べる気がしなかったが、歩隲は顔色一つ変えずに食べた[2]。家に戻ってから、衛旌は歩隲に「こんな扱いにどうして耐えられる?」と尋ね、「我々は貧乏で身分も無い。だから主は貧乏で身分のない者として我々を待遇したのだからむしろ当然の扱いであり、どうして恥ずかしがることがある」と述べたという[2]。
後に孫権に仕えて幕僚となる[2]。孫権の命令で江南の南方の平定、すなわち交州平定に従事するが、この地は当時蒼梧郡太守の呉巨と士燮により支配されていた[2]。210年、歩隲は孫権から交州刺史に任命されて交州に趣き、まずは言葉巧みに呉巨に近づいて殺害した[2]。この一件で歩隲の盛名は交州全土に轟き、士燮は歩隲の命令を奉じるようになる[2]。229年、孫権が皇帝に即位すると驃騎将軍・冀州牧となり、その直後に西陵の都督となった[2]。
孫権が老いて中書の呂壱を信任し、呂壱により公文書の検査が行われて摘発が続いた[2]。歩隲は孫権に上疏して呂壱のやり方を糾弾し、呂壱誅殺の一因となった[2][3]。245年に陸遜が死去したため、246年にその跡を継いで歩隲が丞相となる[3]。しかし歩隲は高位にあっても一族子弟を自ら訓育し、書物を手放さず着る物や住む所はみすぼらしいものだった[3]。このため敵であっても歩隲の威信には敬意を表した[3]。また性格は太っ腹で人々を惹きつけ、喜怒の感情を表すこともなく家の内も外もよく治まったという[3]。ただし家庭内では妻妾らが贅を尽くした服飾を身につけていたため、世間のそしりを受けることもあった[3]。
歩隲の意見や上疏は全て孫権に聞き届けられたわけではないが、日の目を見ずにいる者達を推薦して困難な立場にある者をたちを救ってやるために数十通の上疏をしたという[3]。そのおかげで取り立てられた者も多かった[3]。
247年に死去した[3]。