杉山龍丸
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杉山 龍丸(すぎやま たつまる、1919年 - )は、夢野久作の長男、杉山茂丸の孫。陸軍将校となり、南方戦線で負傷。1962年頃、福岡市の唐の原で農場を経営。インドの砂漠を緑化する計画を抱いていた。[1]
鶴見俊輔が『思想の科学』1962年10月号に「ドグラ・マグラの世界」を発表した後、鶴見に手紙を送り、その後、何度も福岡から上京して鶴見を訪問した[2]。
1965年4月にベ平連発足準備のために開催された最初の会合に自主的に参加し、玄洋社国際部長として呼びかけ人に加わった[3]。
人物・評価[編集]
葦津 (1991 )によると、杉山は、祖父の茂丸や父・久作を追慕する気持ちが強く、研究者と関係を持とうとするが、思い込みが強いため、関連資料の解釈を巡ってトラブルを起こしやすかった[4]。
著作物[編集]
- 杉山龍丸「ふたつの悲しみ」『戦後日本思想体系 14』筑摩書房、1970年、NDLJP 2967310/136
- 雑誌掲載稿:1967年11月『声なき声のたより』No.43、JPNO 00008233
付録[編集]
関連文献[編集]
- 鶴見 (1998) 鶴見俊輔「夢野一族の頌」『隣人記』晶文社、ISBN 4794963661
- 葦津 (1991) 葦津珍彦「愉しい話をしようよ」『鶴見俊輔集 5』月報、筑摩書房、ISBN 4480747052
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090