小山田有誠
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小山田 有誠(おやまだ ありまさ、生没年不詳[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。小山田氏の分家・境弾正家の一族。小山田氏宗家、後北条氏に仕えた。父は小山田弾正[1]。子に茂誠。
生涯[編集]
諱の有誠は宗家の当主・小山田信有からの偏諱と考えられている。父が天文4年8月22日(1535年9月19日)の郡内・山中合戦で戦死したため、家督を相続した。
弘治2年(1556年)に下吉田衆100余名が小林房実に非分が多いとして訴訟を起こした時、房実は有誠に頼んで訴訟回避を試みて失敗した(『勝山記』)。永禄12年(1569年)に武田信玄の駿河侵攻で深沢城が開城した際、有誠は深沢城の定番に任命されて城代となった駒井政直の指揮下に入っているため、陪臣ながら武田家から直接指揮を受ける立場にもあった。
天正10年(1582年)3月の織田信長による武田征伐での武田家滅亡、6月の本能寺の変における信長の横死により甲斐が混乱する中、有誠は息子の茂誠と共に北条氏直に仕えていたらしいく、この年の秋に氏直の叔父・氏忠から武蔵鉢形城に移るように指示が出されている。以後の行方は不明だが、茂誠が後北条氏滅亡後は真田昌幸に仕えているため、それに同行したか、それ以前に死去したものと見られている。