レオニード・クロイツァー
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レオニード・クロイツァー(ロシア語:Леонид Давидович Крейцер;ラテン文字転写例: Leonid Davidovich Kreutzer, 1884年3月11日[1](ユリウス暦では2月27日)[2] - 1953年10月30日[3])は、ロシア出身のピアノ奏者、指揮者、作曲家[4]。
サンクトペテルブルク出身。法律家だった父親の意向で当初は音楽の専門教育を受けず、ギムナジウムに通った。[5]1901年からペテルブルク音楽院に入学してアンナ・エシポワにピアノ、アレクサンドル・グラズノフに作曲をそれぞれ学び、1905年に卒業した。[6]卒業した年には[[アントン・ルビンシテイン国際ピアノ・コンクールに挑戦して4位入賞を果たす。[7]ルビンシテイン国際ピアノ・コンクールに挑戦した年からヨーロッパ各地に演奏旅行に出かけ、[8]1906年にはライプツィヒに移住してアルトゥル・ニキシュに指揮法の指導を受けた。[9]1908年から活動の本拠をベルリンに移し、1921年からベルリン高等音楽院のピアノ科で教鞭を執った。[10]1931年には初来日。[11]1933年にはドイツで失職[12]し、その翌年には来日。[13]一旦アメリカに演奏旅行に出るも、友人の近衞秀麿の忠告を受けてドイツには帰国せず、日本に留まった。[11]1937年から東京音楽学校で教鞭を執る。[14]1944年には一旦公職追放の憂い目に遭うが、1946年には復職し、東京藝術大学に改組後も、同大学で後進の指導に当たった。1948年には東京藝術大学と兼任する形で国立音楽大学技術最高指導者に就任。[11]
東京都東五反田の自宅にて死去。[15]
脚注[編集]
- ↑ 「レオニード・クロイツァーは一八八四(明治一七)年にロシアのサンクト・ペテルブルクで生まれた。ドイツの大ピアニストであるヴィルヘルム・バックハウスと同年の生まれということになる。クロイツァーの誕生日は従来三月一三日とされてきたが、東京音楽学校に遺された自筆の履歴書では三月一一日生ということで、『東京藝術大学百年史』の記述もこれに従っている。」(山本 (2006) 山本尚志 [ レオニード・クロイツァー ] 音楽之友社 2006 9784276217386 27 )
- ↑ 誕生日を3月13日とする資料もあり、この日付に従えばユリウス暦では3月1日となる。(アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ)
- ↑ 淺香 (1989) 淺香淳 [ 新音楽辞典 ] 音楽之友社 1989 9784276000148 174
- ↑ 荻谷は、自身の執筆したクロイツァーの評伝の中で、1922年にマンハイムでヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮で初演された交響的パントマイム《神と舞姫》と、作曲年代不詳の三幕のオペラ《Marussia》を紹介している。(荻谷 (2016) 荻谷由喜子 [ クロイツァーの肖像 ] 株式会社ヤマハミュージックメディア 2016 9784636928303 73-82 )
- ↑ 「法律家で大学教授だったクロイツァーの父親は、レオニードを法律家にしたいと願って、息子が音楽を勉強することをあまり好まなかった。クロイツァーは音楽家としての教育ではなく、サンクト・ペトリ・ギムナジウムで普通教育を受けて、この学校を一九〇一年に卒業した。当時のこの種の学校の常で、古典語に代表される人文主義的教養を身につけたのだろう。」(山本 2006 27-28)
- ↑ 荻谷 2016 37-41
- ↑ 「一九〇五年に、クロイツァーはパリに赴いてアントン・ルビンシテイン・コンクールに参加した。これはアントン・ルビンシテイン]]自身の提唱による当時の最も権威ある国際コンクールだが、クロイツァーは第三等ディプロマ(第四位)を獲得している。第一位はドイツの巨匠バックハウス。優勝できなかった参加者に指揮者のクレンペラーや作曲家のベラ・バルトーク、ピアニストのレオ・シロタがいた。」(山本 2006 35-36)
- ↑ アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
- ↑ 荻谷 2016 325-326
- ↑ 荻谷 2016 326
- ↑ 11.0 11.1 11.2 アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
- ↑ 「一九三三(昭和八)年一月にドイツの権力を握ったナチスは、ユダヤ系の人々や反対派に対して野蛮で残酷な迫害を始めた。クロイツァーはユダヤ教を信じていないので厳密にはユダヤ人ではないが、ユダヤ系とされて四月にベルリン音楽大学を追放された。」(山本 2006 79)
- ↑ 「ナチスに追われたピアノの名手ベルリン国立高等音楽学校教授レオニード・クロイツァー氏は日本人門下生たちの奔走により、二十四日午後四時五十分東京駅着の列車で再びライチョウ、帝国ホテルに投宿した。乗杉音楽校長〔東京音楽学校校長〕を始め、多数のピアニストの出迎へを受けたが、仲でもベルリンにおける教え子たる笈田光吉、澤崎秋子、黒川いさ子、〔東京〕音楽学校教授高折宮次、同田中規矩士の温かい歓迎ぶりに、老いたるさすらいの楽人は涙を浮かべて喜んだ。(『東京朝日新聞』一九三四年二月二五日)。」(山本 2006 81-82)
- ↑ アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
- ↑ 「月曜、火曜と過ぎ、二十八日の水曜日は、クロイツァーが青山学院の行動で開催される同学院演劇部主催の『ベートーヴェン四台ソナタの夕べ』に出演する日であった。/クロイツァーがそろそろ青山学院へ出かけようとしていると、翌月二十日に出身地の大阪でデビュー十五周年記念演奏会を予定している弟子の小園登史子から、次のレッスン日を問う電話がかかって来た。クロイツァーはこの愛弟子のデビュー十五周年を祝し、彼女の演奏会にラフマニノフの二台ピアノのための《幻想曲》(組曲第一番)を共演することになっていたのだ。/クロイツァーはちょうど登史子の演奏会プログラムに載せる『推薦の言葉』のタイプ打ちを終えたところで、登史子には『では、明日来なさい』と答えている。この『推薦の言葉』は彼の近影とともに、大阪の登史子の実家に郵送された。/彼はそのまま青山学院に出掛けた。コンサートの幕があがり、普段通りに演奏が始まった。だが、『月光』ソナタの演奏中、彼は不快な気分が込み上げてくるのを感じた。辛うじて弾き終えたものの、それ以上演奏を継続することができなくなった。演奏会後半の『熱情』ソナタは中止となった。/翌木曜日の新聞がこの出来事を報じた。東大病院の松原正香医学博士の診立ては『軽い脳貧血』とのことで、本人の希望で入院はせず、東五反田の自宅で床に就くことになったと、新聞には書かれていた。/新聞を拡げた属啓成はあっと、声を上げた。ともかく電話でようすを尋ねると、たいしたことはなく、すでに快方に向かっていて、明日あたりは起きられるでしょう、との返事だったのでほっと安堵する。/三十日の金曜日、クロイツァーは冗談を飛ばすまでとなった。一睡もせず見守っていた豊子夫人も愁眉を開きかけた。すると、夕刻、容体が急変した。/昭和二十八(一九五三)年十月三十日、金曜日午後六時三十分、医師の到着を待つことなく、巨星は墜ちた。死因は突然の狭心症。六十九年と七ヵ月の生涯だった。」(荻谷 2016 256-257)