ヨハンナ・マルツィ

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

ヨハンナ・マルツィ(Johanna Martzy, 1924年10月26日 - 1979年8月13日)は、ルーマニアヴァイオリン奏者。[1][2][3][4]

ティミショアラでヨハンナ・エミリア・マリア・マルツィ(Johanna Emilia Maria Martzy)として生まれる。6歳の頃からヨゼフ・ブランダイスの許でヴァイオリンを学ぶ。7歳の時にブダペストに行ってイェネー・フバイの弟子となり、フバイの助手であるナーンドル・ジョルトのレッスンも受けた。1932年にリスト・フェレンツ音楽専門学校入学し、引き続きフバイとジョルトにヴァイオリンを師事したが、ジョルトとフバイが亡くなった後は、フバイの結成していた弦楽四重奏団の第二ヴァイオリン奏者だったフェレンツ・ガブリエルの許で勉学を続けた。13歳の時にハンガリーとルーマニアに演奏旅行に出る。16歳でレメニー賞、17歳でフバイ賞をそれぞれ獲得し、1942年に音楽専門学校を卒業した。1943年にはウィレム・メンゲルベルクの指揮するブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団と共演してピョートル・チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏して名を上げた。翌年にはベーラ・チレリーと結婚したが、夫婦でハンガリーを脱出し、オーストリア経由で1946年にスイスに移住。1947年にはジュネーヴ国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で1位なしの2位に入賞[5]。1948年頃からピアノ奏者のジャン・アントニエッティとデュオを組むようになった。1950年に出版業者のダニエル・チュディと知り合う。1952年にはヨゼフ・カイルベルトの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に、ヨハネス・ブラームスのヴァイオリン協奏曲の独奏者として出演し、1953年にはイギリスに演奏旅行に出かける。1955年にはハイン・ヨルダンスの指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と共演してチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏し、1957年から1958年までアメリカに演奏旅行に出かけて名声を得た。ただ、1959年にイギリスのエディンバラ音楽祭でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演する筈であったが、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団がマルツィの夫であるチレリーに対して第二次世界大戦中のハンガリーに於けるミクローシュ・ホルティの政権の支援者としての疑惑の目を向け、マルツィとの共演を拒絶するという事件もあった。1960年にチレリーが亡くなり、チュディと再婚[6]。1969年には病身の母親と引き換えにブダペストでの演奏会を行ったが、この頃から肝炎を患い、病気がちになった。1976年以降は演奏活動は停滞。1978年にチュディが亡くなると、自宅をグラールスからリュシュリコンに移した。

チューリヒの病院にて癌のため死去。

脚注[編集]

  1. Potter (2011) PotterTully [ JOHANNA MARTZY, LAST OF THE HUBAY SCHOOL ] JOHANNA MARTZY plays SCHUBERT: Complete Works for Violin & Piano Testament 2011 B004S5W0CE 4-7
  2. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  3. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  4. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  5. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  6. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ