ヨジェ・バニチ

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ヨジェ・バニチ(Jože Banič, 1945年3月10日[1] - )は、ユーゴスラビア出身のファゴット奏者、テノール歌手指揮者

第二次世界大戦末期、ハンガリー王国占領下のムルスカ・ソボタに生まれた。ムルスカ・ソボタは戦後、ユーゴスラビア領となった。地元の小学校、ギムナジウムを経て地元の音楽学校でヴァイオリンとクラリネットを学んだ。1961年にリュブリャナに行き、当地の中東音楽学校でアントン・ルパルにファゴットを師事。1965年にはリュブリャナ音楽院に進学し、1970年に卒業するまでスレチコ・コロシャクの許でファゴットの腕を磨いた。音楽院に入学した1965年からリュブリャナ放送交響楽団に籍を置き、同時にリュブリャナ放送木管五重奏団にも名を連ね、1995年までファゴット奏者として参加している。1972年から1978年までコレギウム・ムジクム・マリボル、1975年から1979年までリュブリャナ放送室内管弦楽団のそれぞれのファゴット奏者を兼務。1980年にはカメラータ・ラバチェンシスの設立に関わる。1992年にスロベニア放送交響楽団[2]の首席奏者の職を辞任したが、1995年から2005年に引退するまで復職した。引退後も折を見てスロベニア放送交響楽団に客演している。後進の育成にも熱心で、1971年から1993年までリュブリャナの音楽中等学校でファゴットを教え、1983年から1992年までリュブリャナ音楽院でもファゴットを講じた。ファゴット奏者としての活動の傍らで、テノール歌手としての実績も持つ。1961年にリュブリャナに移った時、ビンコ・ボドピベク合唱団に所属していたことがあり、1971年にはファゴット奏者としての活動の傍らで音楽中等学校に通ってイェルカ・ストルガルに歌を学んだ。1978年から男声合唱団のスロベンスキ・オクテットに参加。1992年に一時退団したが、1996年から2000年まで再加入していた。さらに、指揮者としても活動し、1994年から2007年までは、フラストニク鉱山の金管バンドの指揮者を務めて、同バンドのアンサンブル能力の向上に寄与した。

脚注[編集]

  1. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  2. 運営母体のリュブリャナ放送がスロベニア放送に改名。(アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ)