ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)はイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。 パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、フランシス・ベーコンと共に科学的手法の開拓者としても知られている。
真空実験で有名なエヴァンジェリスタ・トリチェリはガリレオの晩年の弟子である。
目次
生涯[編集]
名前の表記[編集]
トスカナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名づけられたのも長男ゆえと考えられる。
日本語ではガリレオ・ガリレイは、ガリレオまたはガリレイと略される。ただし、イタリア語版Wikipediaなどでは略し方はGalileoで統一されており、今後はガリレオが主流の略し方になる可能性が高い。
家族と生い立ち[編集]
ガリレオの父は1520年フィレンツェ生まれの音楽家ヴィンチェンツォ・ガリレイで、彼は呉服商もいとなんでいた。母はペーシャ生まれのジュリア・アマナティ。二人は1563年に結婚し、翌年、イタリアのトスカーナ大公国領ピサ郊外で長男ガリレオが生まれる。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が生まれる。1591年に父が死んでからは、家族の扶養や妹の持参金の支払いはガリレオの肩に掛かることになる。
ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったが、マリナ・ガンバとは家柄が違いすぎたため正式な結婚をせずに2女1男をもうけている。
ヴィルジニア(1600年生、修道女になってからはマリア・チェレステ) とリヴィア(1601年生、修道女になってからはアルカンジェラ)は幼くしてアルチェトリのSan Matteo修道院に送られた。マリア・チェレステ尼が父ガリレオに送った多くの手紙が残っている。ヴィンツェンツィオ(1606年生)は1619年に父に認知され、Sestilia Bocchineriと結婚した。
1581年、ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年ごろからトスカナ宮廷付きの数学者オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
1589年にピサ大学のfacultyの地位を得て、数学を教えた。1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。
ガリレオは、科学分野で実験結果を数学的に分析するという画期的手法で高く評価されている。彼以前にはこのような手法はヨーロッパには無かった。
さらにガリレオは、科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することに寄与し、「科学の父」と呼ばれることになる。
しかしそれゆえに敵を増やし、異端審問で地動説を捨てることを宣誓させられ、軟禁状態で晩年を送ることになる。
略歴[編集]
- 1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
- 1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)
- 1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
- 1586年 最初の論文『小天秤』を発表
- 1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
- 1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)(3年契約)
- 1591年 父ヴィンチェンツォ死去
- 1592年 ピサ大学の職を任期切れになる
- (ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される)
- 1592年 ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
- 1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す
- 1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。2女1男をもうける。
- (1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる)
- 1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
- (1608年 オランダで望遠鏡が発明される)
- 1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
- 1609年 オランダの噂を聞き、自分で望遠鏡を製作。天体観測を行う
- 1610年 木星の衛星を発見、メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星と名づける。これを『星界の報告』として出版、発表する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
- (ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する)
- 1610年 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
- 1611年 リンチェイ・アカデミー会員
- 1613年 『太陽黒点論』を刊行
- 1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
- 1613年頃 2人の娘を修道院に入れる
- 1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
- 1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける
- (コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる)
- 1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
- 1631年 娘たちのいるアルチェトリ(フィレンツェの郊外)の修道院の脇の別荘に住む
- 1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行
- 1632年 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
- 1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
- 1633年 シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される
- 1633年 アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
- 1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
- 1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
- 1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
- 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
- 1642年 アルチェトリにて没。
業績[編集]
天文学[編集]
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。オランダで1608年に望遠鏡が発明されると、すぐに10倍の望遠鏡を入手し、さらに20倍のものに作り変えた。これを用いて1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は、1610年3月に、『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として論文発表された。(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。
金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった。
さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人となった。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽黒点を観測していた可能性もある。形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった。これは、アリストテレス派の研究者と激しい議論となった。なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡で太陽を直接見たためだと考えられている。(ただし、1610年代には既に望遠鏡の接眼レンズの先にスクリーンを置く手法は開発されていた。この方法を発明したのはガリレオではないが、他の観測者があまり知らなかったこの方法を用いることによって、ガリレオはより詳しく太陽黒点を観測することができた)
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中で既に地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭までは公にそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
このほかにも、月の表面に凹凸があることも発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えではこれも説明がつかないものであった。
また、天の川が無数の恒星の集合であることも発見した。
物理学[編集]
ピサの大聖堂で揺れるシャンデリアを見て、振り子の等時性(大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を発明したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、という有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていないとされる。
実際に落下時間を計測するとなると、大変に精密な時間の計測をしなければならない。このため、ガリレオのこの実験は思考のみで実際に行われなかったと考えられた時代があった。しかし、ガリレオは音楽家の息子であり、歌を歌いながら計測すれば、当時の技術でも16分の1秒までなら計測はできたという指摘があり、実際に実験は行われただろうといわれている。なお、実際に同じ高さから質量の違う物体を同時に落下させると、質量の大きいもののほうがほんのわずかだけ先に落下する。これは空気抵抗があるためである。従って、もし公開実験を行ってもうまくはいかなかった可能性は高く、当然それを知っていたガリレオが公開実験を行ったとは考えにくい。また、公開実験が行われたという記述はガリレオ自身の記述にはなく、ヴィヴィアーニの伝記以前の当時のどの文献にも存在しない。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。
科学革命[編集]
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。
有名な失敗[編集]
大きな過ちのある説を多く発表している。ただし、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなどにも、似たような誤りは多くある。ここでは主なものをあげる。
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続けた。「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても、これを撤回しなかった。
地動説の証拠として潮汐をあげた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は、潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがある。ただし、ガリレオのこの主張は、当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もし、ガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常2回起きる。ガリレオは、2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。
その他の主な業績[編集]
- 「小天秤」
- 「幾何学的・軍事的コンパス」
ガリレオ裁判[編集]
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。 このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている。
第1回の裁判[編集]
ガリレオが地動説について言及しはじめると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿(Francesco Romulo Roberto Bellarmino)だった。ベラルミーノはガリレオをフィレンツェからローマに呼び出した上で、無罪の判決を下し、署名入りの判決文をガリレオに手渡した。教会の布告は教会の敷地内でのみ有効であるという解釈だった。ただしこれは文字通りの意味ではない。神や天地創造と地動説を結び付ける発言をしなければ問題はない、という意味である。ベラルミーノはこの直後、他人を刺激するような言動は控えたほうがよいと、友人として忠告した。
この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、
- (天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為)
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。
第2回の裁判[編集]
1630年、ガリレオは、地動説の解説書、『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方を、あくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2名の者による対話によって紹介する形をとり、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書かれていた。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。容疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなく、フィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが、事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は、正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。
裁判で、ガリレオはベラルミーノ枢機卿の無罪の判決文を提出して反論した。しかし、検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた判決文は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオの持つ無罪の判決文には教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。
1633年の裁判の判決で、地動説を捨てることを宣誓させられたガリレオが、宣誓の言葉に続いて小声で(あるいは大声で)「それでも地球は動く!」と叫んだという有名な逸話は、当時の裁判制度からしてありえないと考えられている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。
裁判以後[編集]
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、ヘルマンによれば1822年まで撤回されなかった。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ教会で行われた。
裁判の影響[編集]
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトが、ガリレオ裁判の話を聞き、自説の発表をためらったという逸話が伝わっている。
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。
裁判の検証[編集]
この裁判には疑問が多いことから、20世紀になって検証が行われた。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
Giorgio di Santillanaによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。
このほか、次のような説もある。
- そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という。
- 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。
- 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた。
ローマ教皇庁の対応[編集]
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から350年後のことである。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマト大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
主著書[編集]
- 『星界の報告』
- 『太陽黒点論』
- 『贋金鑑識官』
- 『天文対話』
- 『新科学対話』
- 『真実の図表』
参考文献[編集]
- 『ガリレオの生涯』1,2,3. S.ドレイク 共立出版 1984-1985年
- 『ガリレオ 人類の知的遺産31』伊東俊太郎 講談社 1985年
- 『ガリレオ・ガリレイ』青木靖三 岩波新書
- 『ガリレオ 庇護者たちの網のなかで』田中一郎 中公新書
- 『ガリレオの娘 科学と信仰と愛についての父への手紙』デーヴァ・ソベル著 DHC 2002年
- 『ローマのガリレオ 天才の栄光と破滅』W・シーア、M・アルティガス著 大月書店 2005年
- 『ガリレオの迷宮』自然は数学の言語で書かれているか? 高橋憲一 共立出版 2006年 ISBN 4320005694
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