苫米地義三

提供: Yourpedia
2009年11月8日 (日) 04:38時点におけるFromm (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: ''''苫米地 義三'''(とまべち ぎぞう、明治23年(1880年12月25日 - 昭和34年(1959年6月29日)は日本政治家...')

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

苫米地 義三(とまべち ぎぞう、明治23年(1880年12月25日 - 昭和34年(1959年6月29日)は日本政治家衆議院議員1946年-1952年、当選3回)、参議院議員(1953年-1959年、当選1回)。青森県上北郡藤坂村出身。(三本木市を経て現十和田市上杉謙信の末裔を称した。旧制札幌中学校東京高等工業学校卒。日本進歩党民主党国民民主党(党首)、改進党日本民主党自由民主党に所属。

略歴[編集]

会社員時代は、大日本人造肥料会社(現日産化学工業)の社長・第一化学工業株式会社の社長を務め、南部鉄道社長も要請により就任。骨相学・考星学(アストロロジー)・姓名学・霊気療法の研究を趣味とした。

1947年4月25日、終戦後初の衆議院選挙で、日本進歩党公認で青森県全県区から出馬し、定数7の立候補者38名中7位で初当選。片山内閣運輸大臣を務め、芦田内閣においても、国務大臣内閣官房長官を務めた。

1947年4月25日衆議院選挙に民主党公認として、青森一区から立候補し、小笠原八十美(民主自由党)・山崎岩男(民主党)に次ぐ3位で当選。

1949年1月23日衆議院選挙に青森一区から民主党公認で立候補し、小笠原八十美に次ぐ2位で当選。

1950年4月28日、国民民主党を結成し、最高委員長を務める。

1951年サンフランシスコ講和会議では野党を代表する形で全権委員の一人となる。

1952年衆議院解散抜き打ち解散)後の、衆議院選挙に立候補せず、日本国憲法下初めての7条解散が、憲法違反であるとして訴訟を起こした(苫米地事件)。

1953年4月24日に行われた、参議院選挙に、国民民主党が合流し結成された改進党公認で全国区から出馬し、当選。改進党参議院議員会長を務め、改進党が日本民主党に合流し最高委員に就任、その後結党された自由民主党に合流。参議院議員の任期を全うして、政界を引退した。

関連項目[編集]

先代:
片山哲
運輸大臣
1947
次代:
北村徳太郎
先代:
西尾末広
内閣官房長官
1948
次代:
佐藤栄作
先代:
成島勇
日本進歩党政務調査会長
次代:
(解散)