還俗

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還俗(げんぞく,Repatriation)出家した僧侶が、俗人に戻ることをいう。

概要

692年(持統6年)、山田史御形は務広肆(のちの従七位下相当)を授けられたが、もとは新羅で学んだ沙門であった(『日本書紀』)。還俗の古い事例である。

冬十月壬戌朔壬申、授山田史御形務廣肆、前爲沙門學問新羅。癸酉、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。
十一月辛卯朔戊戌、新羅遣級飡朴億德・金深薩等、進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・務大貳川內忌寸連等祿、各有差。
辛丑、饗祿新羅朴憶德於難波館。(『日本書紀』卷第卅 高天原廣野姬天皇 冬十月壬戌朔壬申条)


高句麗沙門福嘉693年(持統7年)に還俗させられた(『日本書紀』)[1]

五月己丑朔、幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。癸卯、設無遮大會於內裏。六月己未朔、詔高麗沙門福嘉還俗。
壬戌、以直廣肆授引田朝臣廣目・守君苅田・巨勢朝臣麻呂・葛原朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・丹比眞人池守・紀朝臣麻呂、七人。
(『日本書紀』卷第卅 高天原廣野姬天皇五月己丑朔)

通徳700年(文武4年)に還俗させられた。陽侯史久尓曾という姓名を与えられ、務広肆を授与された。養老5年正月甲戌条などによれば、「芸」を採用するための還俗であったとされる[2]

注・参考文献

  1. 新川登亀男(2015)「日本仏教以前の仏教」早稲田大学総合人文科学研究センタ研究誌(3), pp.307-312
  2. 続日本紀』養老 5 年正月甲戌条