「安達孝」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(本田1988ほかにより新規作成)
 
 
1行目: 1行目:
'''安達 孝'''(あだち たかし、生年不詳 - 没年不詳)は、は、[[日本陸軍]]の[[情報将校]]。[[陸軍中野学校]]出身。1942年12月、[[スマトラ島|スマトラ]]の[[第25軍 (日本軍)|第25軍]][[スマトラ軍政監部|軍政監部]]付、[[パレンバン州]]([[パレンバン]])軍政部警務部特高科長。翌1943年6月、[[アチェ州]]へ転出。同年9月の[[スマトラ治安工作]](ス工作)による抗日地下組織の一斉検挙を指揮。[[近衛師団]]の特別情報工作担当を経て、1944年頃、[[第7方面軍 (日本)|第7方面軍]]司令部参謀部2課に移り、同年編成された[[茨木機関]]の機関員(工作隊長)として、[[ジョホール州]]南部での防諜工作を指揮した。戦後、[[オランダ軍メダン裁判]]で、ス工作の取り調べの際に容疑者に暴行を加え、自白を強要したとして有罪判決を受けた。
+
'''安達 孝'''(あだち たかし、生年不詳 - 没年不詳)は、[[日本陸軍]]の[[情報将校]]。[[陸軍中野学校]]出身。1942年12月、[[スマトラ島|スマトラ]]の[[第25軍 (日本軍)|第25軍]][[スマトラ軍政監部|軍政監部]]付、[[パレンバン州]]([[パレンバン]])軍政部警務部特高科長。翌1943年6月、[[アチェ州]]へ転出。同年9月の[[スマトラ治安工作]](ス工作)による抗日地下組織の一斉検挙を指揮。[[近衛師団]]の特別情報工作担当を経て、1944年頃、[[第7方面軍 (日本)|第7方面軍]]司令部参謀部2課に移り、同年編成された[[茨木機関]]の機関員(工作隊長)として、[[ジョホール州]]南部での防諜工作を指揮した。戦後、[[オランダ軍メダン裁判]]で、ス工作の取り調べの際に容疑者に暴行を加え、自白を強要したとして有罪判決を受けた。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==

2020年5月8日 (金) 20:37時点における最新版

安達 孝(あだち たかし、生年不詳 - 没年不詳)は、日本陸軍情報将校陸軍中野学校出身。1942年12月、スマトラ第25軍軍政監部付、パレンバン州パレンバン)軍政部警務部特高科長。翌1943年6月、アチェ州へ転出。同年9月のスマトラ治安工作(ス工作)による抗日地下組織の一斉検挙を指揮。近衛師団の特別情報工作担当を経て、1944年頃、第7方面軍司令部参謀部2課に移り、同年編成された茨木機関の機関員(工作隊長)として、ジョホール州南部での防諜工作を指揮した。戦後、オランダ軍メダン裁判で、ス工作の取り調べの際に容疑者に暴行を加え、自白を強要したとして有罪判決を受けた。

経歴[編集]

島根県出身[1]

幹部候補生出身[2]

陸軍中野学校丙種3期生[3]

1942年(昭和17)12月、中野学校同期の松岡栄一少尉、近藤次男少尉、宮内盛人少尉とともに第25軍司令部に着任[4]軍政監部付として、パレンバン州パレンバン)の軍政部警務部特高科長に任命され、防諜と治安維持を担当[4]

1943年(昭和18)6月、アチェ州へ転出[5]。元藤原機関員のサイド・アブバカルや宗教団体・プサの指導者と連絡を取り、協力を要請した[5]

同年9月、特高科長としてスマトラ治安工作による抗日地下組織メンバー・支援者の一斉検挙を指揮[5]

その後、近衛師団に配属になり、同師団の特別情報工作を担当[6]

その後(1944年頃)、第7方面軍司令部参謀部2課の調査室分室に勤務[7]

1944年暮頃、調査室分室から分離独立した茨木機関(機関長:石島唯一少佐)の機関員となり、ジョホール州南部に置かれた第1工作隊を指揮した[8]

特操出身の機関員が)数人で唐手の練習をしているところに、安達大尉がやってきて、「お前ら、人を殺したことがあるか」と聞いた。おれは殺したことがあるぞ、といいたげな顔付だ。やくざの世界では、人を殺傷して刑務所入りをすれば、箔がついて仲間うちで威張れるように、軍隊では、戦闘経験のあるものが威張る。彼らは今更のように若輩であることを痛感し「いいえ、ありません」と答えた。

安達大尉はフフンといった顔をして、

「イギリス人の捕虜でスパイをやったことが、ばれたのがいる。いずれは死刑だ。だから、お前ら、その首を斬ってみろ」

という。彼らは顔を見合わせた。-こりゃえらいことだ。

弱虫といわれそうだが、やります、とはいえない。口ごもっていると、

「こわいんだろ、お前ら」

と、安達大尉は、にやりとして行ってしまった。

あとで近藤大尉に聞くと「あれは中止になった」と事もなげにいった。ほっとした。そして安達大尉は、おれたちの肝試しをしたのかなと思った。

茨木機関での安達大尉について 本田 1988 34

1945年8月、終戦に際して、スマトラ島へ潜行[9]

彼(ハッサン)は、その体格に似合わず、弱弱しい表情で、安達大尉に対し「トアン(だんな)、もうおしまいだ。ブランダ(オランダ)が来たら、私はやられる」とおろおろした声でいった。安達大尉が、「心配するな。やられてたまるか。こっちがブランダをやっつけるんだ」と力づけると、ハッサンはピストルを所望、神代のピストルを渡した。安達大尉は「ブランダが来たら、ゲリラ戦をやって、あくまでも戦うんだ」とハッパをかけ、「これを逃亡の資金にしろ」といって、図囊から、カマボコくらいの大きさの金塊を1つ取り出した。ハッサンの顔色が変わり、受け取る手が震えていた。

潜行先のアチェ州で元藤原機関員・アブドラ・ハッサンの家に泊った際の安達大尉について 本田 1988 116

1946年3月頃、ベラワンEnglish版からマレー半島へ向かう船に乗船しようとした際に、戦犯容疑でオランダ軍憲兵に拘引された[10]

1948年4月15日に、オランダ軍メダン裁判で禁固10年の判決を受ける[1][11]

  • 茶園 (1992 129)によると、起訴理由は「アチェ州軍政部警務部特高科長在勤中、反日陰謀団検挙取調べに当り、部下と共に集団の一員として自白強要のため各種暴行を部下が行いたるを容認し、かつ被告人自身オランダ人数名を殴打す」。求刑は禁固15年だったが、判決は10年だった(同)。

人物[編集]

  • 本田 (1988 25)は、茨木機関の頃の安達大尉について、白の半袖に白い半ズボンという昭南の一般民間人の服装をしていて、均整のとれた逞しい体をしていた、と評している。
  • 本田 (1988 39)は、幹部候補生出身で、どことなくインテリ臭があった、と評している。
  • 茨木 (1953 19)は、「安木(安達の仮名)は長身で肉付きもよく、偉丈夫の風格があ」ったと評している。

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 茶園 (1992) 茶園義男『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、JPNO 92034961
  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
  • 坂 (1968) 坂邦彦(編)『蘭印裁判(1)』東潮社、NDLJP 3007723 (閉)
  • 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、NDLJP 1660537 (閉)