特別操縦見習士官

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特別操縦見習士官(とくべつそうじゅうみならいしかん)は、太平洋戦争中の1943年から1944年にかけて、日本陸軍が、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を予備役将校操縦者として登用した制度、或いは登用された者を指す。しばしば特操と略される。1-4期生が養成され、1,2期生は特攻に動員されて多数の戦死者を出した。戦争末期の飛行機・ガソリン不足のため、3,4期生は十分な訓練を受けることができず、ために大部分が生き残った。

制度設立の経緯[編集]

1943年(昭和18)6月、東條英機首相陸軍大臣は、「航空を超重点とする」軍備建設を指令した。その中で、操縦者(パイロット)の育成数は、年度内に3,000名、翌年度末までに2万名が目標とされた。[1][2]

陸軍は、従来から、少年飛行兵陸軍航空士官学校の校生を増員していたが、目標達成には短期間に大人数の拡充が必要で、時間的にも数的にも要員が不足していた。そこで、速成で専門性の高い操縦教育に対応できる優秀な人材の供給源として、大学などの高等教育機関から人員を登用することにした。要出典

同年7月に「陸軍航空関係予備役兵科将校補充及服役臨時特例」[3](勅令566号)が発令され、これに基づいて採用された者は、特別操縦見習士官(以下、特操と略す)と呼ばれた。要出典

国民一般には学鷲の愛称も使われた要出典

特別操縦見習士官は、特別海軍飛行予備学生と似た制度で、航空消耗戦の要請に応えるために設けられ、高等学校・専門学校の卒業生、大学の卒業生、在学生を対象とした[4]

構成[編集]

  • 1943年10月1日付で1期生約1,200名要出典
  • 1944年2月に2期生約1,800名要出典
  • 1944年6月1日に3期生
  • 1944年8月15日に4期生

が入隊し、4期で制度は終了した[4]

2期生、3期生には、1943年12月1日に一般の部隊に入営した学徒動員組から転科した者が多く、3期生には学窓から直接採用された者もいた[4]。4期生は全員学生から直接入隊した[4]2年間、4期で通算約8,000人を輩出したとされる要出典

制度の特徴[編集]

速成教育[編集]

特操は、採用と同時に曹長の階級章をつけた見習士官の身分を与えられ、各地の陸軍飛行学校へ入校、わずかな基礎教育の後、練習機で操縦教育を受けた。6ヶ月後に飛行学校を卒業すると、教育飛行隊へ配属されて実用機の訓練を積み、実戦部隊に転属し、更に訓練や将校勤務を経て、採用から1年後に少尉に任官した。3年以上かけて教育を受ける航空士官学校や少年飛行兵と比べて、極端に短期間で将校操縦者となるのが特徴だった。要出典

操縦適性[編集]

特操は、名前が表すとおり、操縦者に限定した制度であったため、教育中に操縦に適性がないと判断された者は、1944年5月以前は甲種幹部候補生に編入され、1944年5月に特別甲種幹部候補生の制度[5]ができてからは、そちらに編入されるようになった。要出典

特別待遇[編集]

特操は、階級制度上も「特別」待遇を受けた。初めから「兵」を経験せずに曹長(下士官)の階級章を与えられ、編制では准士官の准尉よりも上位で、少尉に準じる者として扱われた。要出典

  • ただし、特操の採用条件は、高等教育機関を卒業した者(新卒ではなく既卒者でも可、30代の採用者もいた)あるいは卒業見込みの者であったので、特操として登用される前に、既に兵・下士官として軍にいた者もいた。要出典
  • 対比例として、甲種幹部候補生は、入営までに受けた教育の高さに応じて、比較的短期間で少尉になれたが、軍歴は二等兵から始まっていた。陸軍士官学校や航空士官学校の士官候補生も、兵(上等兵兵長)を経験した。要出典

制度創設の背景には、高学歴者を優遇する海軍の予備学生制度が、大学生や専門学校生に人気だったことがあり、特操制度は、優秀な人材を海軍に取られまいとする陸軍の苦肉の対抗策であったとされる[6]

しかし、人員が多かったとはいえ、特操の飛行学校教育での区隊長は、主に少尉や、場合によっては先任見習士官が務めていた。航空士官学校の区隊長が原則として大尉または中尉だった事と比較すると、格式に差があり、陸軍上層部が、操縦者としても将校としても極端に経験が少ない特操を、真に優遇していたと思われる形跡は薄い。要出典

志願制[編集]

特操の制度は、学徒出陣の根拠法である「在学徴集延期臨時特例」(勅令755号、1943年10月2日発令)よりも3ヶ月早く創設された。志願による受験者を採用した点が、強制的に徴用された学徒兵とは異なっていた。要出典

  • ただし、2期以降の特操志願者の中には、徴兵される前、あるいは特操を志願しないまま陸軍に入った後で「兵隊で苦労するなら、いっそ特操で見習士官のほうが」という動機により特操志願した者や、志願を勧められた者も存在した。要出典

配属先[編集]

特操は、代用的な操縦教官[7]特攻の要員として起用されることが多かった要出典

特攻要員[編集]

特攻に動員された1,2期生からは、多数の戦死者を出した[8]

諜報要員[編集]

1,2期生は特攻に動員されたが、その後は、飛行機・ガソリンが不足したため、3期生は一部しか飛行訓練を終えることができず、4期生は飛行機の操縦桿を握ることができなかった。しかしそのために却って大部分が生き残った。[8]

3期生、4期生のうち、約420名は南方要員となった[4]。その大多数は、陸軍熊谷飛行学校に入校し、その分校の軽井沢教育隊(第2地上準備教育隊)や野辺山教育隊でグライダーによる訓練を受けた後、1944年9月に南方行き輸送船団の船で門司を出航した[8][9]。同年12月末にシンガポールに到着し[10]、翌第1945年1月から第55航空師団隷下のジャワの第1練習飛行隊、マレーの第2練習飛行隊に分かれて高等練習機による飛行訓練を受けた[8][9]

1945年4月末、戦局が急迫してくると、飛行訓練は中止され、練習用の旧式機も特攻用に転用されることになり、練習飛行隊は解散することになった[8][11]。特操の隊員はシンガポールに再集結を命じられ[12][13]、同地でその大部分が1945年6月1日付で操縦見習士官から兵科見習士官に転科となり[14][15]、やがて南方軍の総司令部・各軍団の参謀部付となって情報任務に就くため、南方各地に配属された[14][16]

主な特操出身者[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 刊行会 1996 200
  2. 防衛研 1976 207
  3. 「当分ノ内陸軍ノ航空関係ノ予備役兵科将校ハ航空機操縦ニ從事スル兵科将校ヲ志願スル見習士官(以下特別操縦見習士官ト稱ス)ニシテ少尉ニ任ゼラル」(中略)「特別操縦見習士官ハ大学令ニ依ル大学学部若ハ予科、高等学校高等科、専門学校、高等師範学校、師範学校又ハ陸軍大臣ニ於テ之ト同等以上ト認ムル学校ヲ卒業シタル者ニシテ特別操縦見習士官タルコトヲ志願スルモノヨリ陸軍大臣ニ於テ銓衡ノ上之ヲ採用ス」(以下略)
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 本田 1988 8
  5. 特別甲種幹部候補生は、特操の考え方を地上勤務の予備役将校に導入したもので、資格および採用後の待遇は特操と同じだった。根拠法令は「陸軍兵科経理部予備役将校補充及服役臨時特例ニ関スル件」。
  6. 防衛研 1976 210
  7. 経験を積んだ操縦者は部隊で重宝されたため教官・助教として引きぬくことに批判的な声が多く、操縦を習得したばかりの未熟な操縦者が後輩たちの教官として残るという事例がしばしばあった。
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 本田 1988 9
  9. 9.0 9.1 中西 1994 36
  10. 輸送船団中の江尻丸が同年10月10日にアグノー岬沖で米潜水艦レイポン号の雷撃を受け沈没し、隊員が離散したため到着が遅れた(中西 1994 36)。
  11. 中西 1994 81-82
  12. 中西 1994 82
  13. ジャワの第1練習飛行隊の隊員は、ジャカルタからシンガポールへ向かうために乗船した重巡洋艦「足柄」バンカ海峡英潜水艦「トレンチャント」に撃沈され、しばらく漂流したのち駆逐艦「神風」に救助されシンガポールに到着した(本田 1988 9、中西 1994 98-99)。便乗の陸軍兵士約1,649人のうち戦死者は600-1,000名だったとされるが、特操約200人中の死者は1名だけだった(本田 1988 10)。
  14. 14.0 14.1 本田 1988 22-23
  15. 中西 1994 99
  16. 中西 1994 99,102

参考文献[編集]

  • 刊行会 (1996) 陸軍航空士官学校史刊行会(編)『陸軍航空士官学校』陸軍航空士官学校史刊行会、JPNO 97041947
  • 中西 (1994) 中西淳『諜報部員脱出せよ - 実りなき青春の彷徨い』浪速社、ISBN 4888541523
  • 高田 (1989) 高田英夫『陸軍特别操縦見習士官よもやま物語』光人社、ISBN 4769804717
  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
  • 防衛研 (1976) 防衛庁防衛研究所戦史室『陸軍航空の軍備と運用 3』〈戦史叢書〉朝雲新聞社、JPNO 72008469