吉永弘之

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吉永 弘之(よしなが ひろゆき、生年不詳 - 没年不詳)は、日本陸軍情報将校陸軍中野学校出身。1943年3月から船舶司令部付きとして港湾(船舶)の防諜調査を行い、同年日本軍占領下のシンガポールに赴任。1944年初に南方総軍司令部付として編成された浪機関の機関長となり、南方占領各地の海上防諜(連合軍スパイの探索・摘発、治安情報収集の実務)を担当した。

経歴

  • (1944年初)南方総軍司令部と協議し、吉永を機関長として総軍司令部付の浪機関を編成[2]
  • (この頃?)参謀部2課付属の調査室[3]の分室に所属し、石島唯一大尉とともに、「残置諜者(占領地域に残された連合軍のスパイ)」を探したり、治安情報を収集する実務を担当した[4]
  • 終戦後、浪機関の本部機関員は2班に分かれてシンガポールを逃れ、吉永らの班はバタン島Bahasa Indonesia版へ行こうとした[5]

付録

脚注

  1. 中野校友会 1978 553,839-840
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 中野校友会 1978 553
  3. 連合軍の放送や軍の通信を傍受し、暗号解読や、スパイを逆用して偽情報を流すなどの文書諜報を行った
  4. 本田 1988 38
  5. 中野校友会 1978 554。(編注)実際に潜行したのかや、その後の顛末は不明。

参考文献

  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730