高山清司
髙山 清司(たかやま きよし、1947年9月5日 - )は、ヤクザ、指定暴力団・六代目山口組若頭兼中部ブロック長、二代目弘道会会長、二代目髙山組総裁(初代組長)、旧弘田組若頭補佐、元菱心会理事長。
六代目山口組第二の有力者と目される人物で、警察庁の報告書は、4,000名の人員を擁する弘道会という強力な組織をわずか26年という短期間のうちに作り上げた張本人(中心人物)と名指しする。六代目山口組組長・司忍が服役していた時期には、山口組の『事実上の最高指導者』とされていた。
刀傷によるものと伝えられる閉じた片目を外観上の際立った特徴としている。
来歴
愛知県の津島市に出生。10代で暴力団の世界に加入し、弘道会の前身にあたる弘田組の傘下組織に加入した1975年に司忍と出会い、それからというもの常に司とともにあった。やがて2005年における司を首領に据えた山口組六代目体制の発足と同時に、宅見勝の暗殺以来空席となっていた山口組若頭の役に就任。
私生活
六代目山口組の発足に伴い若頭の役に就いて以降は、神戸市内の私邸に居住し、平日は午前から夕方頃まで山口組の総本部へ詰め、週末だけ名古屋に帰省するという生活様式となっている。新神戸駅近くの高台に位置するその私邸は、入り口に防弾仕様と見られるステンレス製の門と監視カメラを四方配置、さらに最高幹部の護衛役を担う組員らの詰め所と見られる4階建てのビルが隣接し、その内部では接近者の監視を行う10数台のモニターが稼動しているという状況で、2008年に立ち入った捜査員いわく“砦のようであった”という。
逮捕(2010年)
2010年11月18日 ― 建設業に従事する京都の男性に対して恐喝行為を行ったとする容疑をもって逮捕された。司忍が服役していた最中の逮捕、山口組の『事実上の指導者』の歴史的逮捕であった。そしてその背景についての様々な疑義を呼び起こすに至った逮捕でもあった。その過程にあっては、件の被害者とされた人物の『どうもただの一般人ではない』ことを思わせる素性などが議論の的とされた。
上田藤兵衛の説明によると、上田と渡辺芳則は30年来の旧友であったが、2005年に渡辺が引退したため、これを奇貨とした高山清司が高山義友希と共謀して上田を子分に取り込み、それによって京都の土建関連の同和利権を掌握しようと目論んだのであろうという。
いずれにしても件の逮捕は警察当局による“山口組壊滅作戦”の一環にあたるものとされた出来事で、それからわずか2週間後には六代目山口組第三の有力者と目される宅見組組長の入江禎が逮捕されるに至っている。
逮捕後の経過
逮捕後は京都拘置所に収容されていたものの、病気を理由に2012年の1月20日から同年2月20日まで拘留停止へ。6月には京都地裁の決定に基づき保釈となった。保釈保証金は15億円。異例の高額であった。
山口組ナンバー2に懲役6年実刑判決(2013年3月)
みかじめ料名目で建設業の男性(67)から現金4千万円を脅し取ったとして、恐喝罪に問われた指定暴力団山口組ナンバー2で弘道会会長、高山清司(65)の判決公判が22日、京都地裁で開かれ、小倉哲浩裁判長は懲役6年(求刑懲役10年)を言い渡した。
公判では被害男性による供述の信用性や配下組員らとの共謀の有無などが主な争点だった。
高山は一貫して無罪を主張。弁護側も男性証言の信用性に疑義を示した上で、「捜査機関が捏造した事実無根のストーリーにすぎない」と訴えていた。
一方、検察側は「配下の者が了解を得ずに恐喝行為に及ぶことはありえない」と強調。「勢力拡大をもくろみ、組織的威力を背景に収入源を得ようとした」として、法定刑上限の懲役10年を求刑していた。
高山は平成17~18年、山口組系淡海一家(大津市)総長の高山義友希(よしゆき)(56)=恐喝罪などで分離公判中=らと共謀し、京都市内のホテルなどで建設業の男性から計3回にわたり、4千万円を脅し取った。
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