藤原房前
藤原 房前(ふじわら の ふささき、天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月25日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。正三位、参議。贈正一位、太政大臣。
生涯
藤原北家の始祖で万葉には藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、703年には20代前半にして、律令施行後初めて巡察使となり、東海道の行政監察を行った。その後も兄武智麻呂と同時に昇進していたが、元明朝末期から元正朝初期にかけての高官の死亡(穂積親王・大伴安麿・石上麻呂・巨勢麻呂)を受けて、717年に武智麻呂に先んじて参議となった。これは、参議以上の議政官は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、右大臣である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった[1])。元明上皇が死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じて、皇太子首皇子の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、元正天皇が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。
甥の聖武天皇即位後、729年に皇親勢力の巨頭で政治上のライバルであった長屋王を失脚させ(長屋王の変)、藤原四子政権の中心人物として、他の兄弟とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂(正二位・左大臣)との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて天然痘に倒れた。
房前の子孫である藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中で最も繁栄した。
系譜
- 妻:春日倉首老の女
- 長男:藤原鳥養(うかい)
- 妻:阿波采女
- 七男:藤原楓麻呂(かえでまろ)(723-776)
略歴
- 大宝3年(703年) 東海道巡察使
- 慶雲2年(705年) 従五位下
- 和銅2年(709年) 東海道・東山道を検察
- 和銅4年(711年) 従五位上
- 和銅8年(715年) 従四位下
- 霊亀3年(717年) 参議
- 養老3年(719年) 従四位上
- 養老5年(721年) 従三位、授刀頭
- 養老5年10月24日 元正天皇の内臣に任命
- 神亀元年(724年) 正三位
- 神亀5年(728年) 中衛大将
- 天平元年(729年) 中務卿
- 天平4年(732年) 東海道・東山道節度使
- 天平9年(737年)4月17日、天然痘により死去
- 天平9年(737年)10月 正一位左大臣を追贈
- 天平宝字4年(760年) 太政大臣を追贈
能のなかの房前
房前は能楽『海人』の登場人物としても知られる。この能によると、房前大臣は亡き母をたずねて讃岐国、志度の浦を訪れる。そこできかされたのは父不比等と母である海女の物語。
「13年前淡海公(不比等のこと)はある目的をもってこの地にきた。そこでひとりの海女とであい、子をもうけた。淡海公は海女に この地にきた目的は、竜宮に持ち去られた『面向不背の珠(めんこうふはいのたま)』という宝物を探しだすことだと語る。海女はその宝物を竜宮からとりもどせば、身分の低い自分のようなものが生んだ子でも正式な息子として認めててくれるかと問い、淡海公の確約を得て海にとびこむ。そして竜宮へおもむき、自分の乳の下をかき切って体内に珠をかくし海上へたどりつく。珠はみごとに淡海公の手にとりもどされたが、海女は傷がもとでなくなってしまう。淡海公は約束どおり房前を正式な息子として都につれかえった」という物語である。
この話をきいた房前は母の菩提をとむらい、法華経の功徳で母は成仏したというストーリーである。
関連項目
脚注
- ↑ このため、不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともあるが、これに対して各豪族から1名ずつという慣習が守られていたからこそ、嫡男の武智麻呂が父の生存中は議政官には昇進できなかったとする意見や房前を直前に死去した巨勢麻呂の後任と考えて、当時「東国問題」担当の議政官の枠が存在していたとする説などの反論が出されている。