藤原内麻呂
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藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ、天平勝宝8歳(756年) - 弘仁3年11月13日(812年12月24日))は、奈良時代から平安時代初期の公卿。北家真楯の三男として生まれる。後長岡大臣とも。伯父である永手系に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけて台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。興福寺のために不空羂索観音像と四天王像を作り、冬嗣に納めさせたという。
系譜
- 妻:坂上登子(坂上苅田麻呂次女)
- 妻:不明
略歴
- 天応元年(781年) 従五位下
- 天応2年(782年) 甲斐守、左衛門佐、中衛少将、越前守、内蔵頭、刑部卿。
- 延暦13年(794年) 参議、陰陽頭、近衛大将、勘解由長官。
- 延暦20年(798年) 従三位・中納言、造宮大夫。
- 大同元年(806年) 大納言、正三位・右大臣・侍従。
- 弘仁3年(812年)以降 太政大臣・従一位を追贈。
関連項目
外部リンク
参考文献
- 「藤原内麿家族について」栗原弘(『日本歴史』511号)