苗代川

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苗代川(なえしろがわ)は、鹿児島県日置市美山の旧称。慶長の役島津軍によって朝鮮半島より連行された朝鮮人陶工達の集落が置かれた場所で、現在も薩摩焼の工房が存在している。

歴史

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉朝鮮出兵で行われた南原の戦いの際に島津義弘の軍勢の捕虜となった陶工・朴平意ら朝鮮人男女43名が翌年薩摩国日置郡に連行された。だが、当時の島津氏は直後に起きた関ヶ原の戦いなどの対応に追われ、周辺住民とも生活習慣の違いから対立するなど、事実上の遺棄状態に置かれていた。言葉も通じない地で彼らは陶磁器を焼いて細々と生計を立てていた。

慶長8年(1603年)頃、薩摩藩が江戸幕府に所領安堵を許されるとようやく情勢が落ち着き、彼らはこの地に移されて朴平意を庄屋に任じて陶磁器製造を命じられた。続いて藩内他所に居住していた他の朝鮮人連行者も徐々にこの地への集住が命じられた。朴平意らは新しい村の北西に檀君を祀る玉山宮(現在の玉山神社)を創建した。

延宝3年(1675年)、当時の藩主島津光久によって参勤交代の御仮屋(本陣の役割を果たす薩摩藩主の別邸)がこの地に移されて以後、保護と統制の表裏一体の政策が進められるようになる。翌年には他の土地の女子が苗代川に嫁いでくる事を例外として一切の外部との通婚を禁じる命令が出され、続いて日本名を名乗る事や日本の衣服を身に着けることが禁じられた。更に陶磁器製造を藩庁の厳重な監視下に置いた。これは日本人社会から完全に隔離して薩摩藩御用焼の生産維持と朝鮮風俗の保持を強制するためのものであった。更に藩主の参勤交代の際には陶工たちが演じる朝鮮式の神舞・歌謡を見物し、村から選抜した小姓に朝鮮衣装を身に付けさせて江戸に上らせた。その代償として日本人による苗代川住民への犯罪行為は厳罰に処せられ、村の指導層は郷士、その他一般住民もこれに準じる身分待遇を受ける慣例が保障されていた。

この地域は地下水位が低かったため深い井戸を利用する技術が発達しており、宝永元年(1704年)には約160名の住民が当時不毛の地であった笠野原へ移住している[1]

弘化2年(1845年)、薩摩藩の実権を握った調所広郷が窯の新造を支援するとともに専売制度を改革して住民の生活改善と生産増加を図った。これにより苗代川の薩摩焼は広く全国に知られるようになった。調所が急死しその一族が追放された後も、苗代川の住民だけは彼の供養塔を密かに玉山宮の脇に立てて長く功績を称えたという。

ところが、明治維新に際して苗代川からも部隊が出動しているにも関わらず、四民平等による身分制度の改定の際に苗代川住民の殆どが平民とされた。村の指導部は郷士と同格と言う事で当然に士族に加えられ、一般住民も同格とは言えないまでも一般の日本人住民よりも格上として扱われてきた過去の経緯から士族として扱われるものと思われていただけにこの決定は住民に衝撃を与えた。以後住民は度々鹿児島県に士族編入を願ったものの却下された。住民の一人である朴壽勝が、士族編入の実現を諦めて、東郷氏の士族株を得て日本人姓を取得したのは明治20年(1887年)、最後の士族編入申請が却下されてから程なくの頃だった。壽勝の息子が後の外務大臣東郷茂徳であるが、生前の東郷は郷里が抱えた複雑な事情と普段の寡黙さもあって、家族にはこの話をほとんどしなかったという。

その後、苗代川住民は朝鮮半島の植民地化の進行とともに社会からの差別を受けるようになっていく。そして日韓併合が行われると、住民は全員日本人姓に改姓したという。同地において苗代川住民と周辺の日本人社会の融和が実現していくのは戦後になってからだといわれている。

脚注

  1. 橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 『三国名勝図会 巻之8』 1843年

関連項目

参考文献