翟魏
翟魏(てきぎ)とは、中国の五胡十六国時代後期の388年2月から392年6月まで続いた丁零族による王朝。首都は滎陽に置かれたが、すぐに滑台に移された[1]。国名は単に魏であるが、曹操による魏や鮮卑族の道武帝が建国した北魏、冉閔の建国した冉魏と区別するため、歴史用語的に翟魏と称される。
歴史
丁零族は西晋時代の初期に中国内地への移動を行ない、八王の乱頃までに中山や常山(現在の河北省石家荘市)を中心とする地域に翟氏を中心とした丁零族が根を張っていた[2]。後趙の石勒が華北に勢力を伸ばすと服従し、さらに遼東から進出した前燕の勢力が拡大するとその支配下に入った[2]。370年に前燕が前秦の苻堅により滅ぼされると前秦の支配下に入り、371年には苻堅の命令で新安郡(現在の河南省義馬市)や澠池郡に移された[2]。
383年の淝水の戦いでは当時の丁零族の族長である翟斌は前秦軍の一員として従軍する[2]。この戦いで前秦軍が東晋軍に大敗を喫し、華北での支配力が一気に動揺した。それを見た翟斌は河南に戻り、383年12月に前秦領の洛陽を攻撃する[2]。しかし同じく前秦の支配から離脱して東から来た鮮卑族の慕容垂に攻められ、敗れた翟斌は慕容垂に服属した[2]。384年1月に慕容垂が後燕を建国すると翟斌は河南王に封じられ、前秦の勢力を河北から駆逐するためその中心となっていた苻堅の庶長子・苻丕の攻撃にも参加した[2]。だが程無く翟斌は慕容垂と再び対立し、翟斌は苻丕と通じて慕容垂を攻めようとしたため、逆襲されて殺害された[2]。翟斌の甥にあたる翟真はこの時の殺害から逃れて北走し、中山近くの承営に根を張って反撃の機会を窺った[2]。しかし385年4月に翟真は部下に殺され、その3ヶ月後の7月には翟氏の集団は後燕の支配下に戻ることになった[2]。
翟真が殺害された時、その息子である翟遼は一部の丁零族を率いて滎陽(現在の河南省浚県)に逃れた[2]。そして386年1月、東晋の滎陽太守であった漛恬之を殺害して滎陽を支配下に置き、さらに泰山(現在の山東省泰安市)や高平(現在の山東省単県)、陳など黄河以南の地域を次々と支配下に置いていった[2][3]。これを見た後燕の慕容垂が攻撃すると、翟遼は慕容垂に対して時には従い、時には離反を繰り返した[3]。
388年2月、翟遼は魏天王を称し、さらに建光という元号を建てた[3]。これが翟魏の建国である[3]。しかし翟魏は3万8000戸の丁零族と、東晋と後燕に挟まれて支配領域は滎陽を中心とした限定的な地域にしか及ばない小国であった[3]。翟遼は後燕の攻撃に備えて首都を滎陽から滑台に遷して領土拡大を図るが、東晋に後燕と自国より遙かに強大な勢力を前にそれは無理な話であった[3]。391年10月、翟遼が死去してその息子である翟釗が跡を継いだ[3]。翟釗は後燕に対して果敢に攻撃したが敗退し、逆に392年6月に慕容垂の反撃を受けて首都の滑台は陥落し、国家としての翟魏は滅亡した[3]。
翟釗は後燕と対立していた西燕の長子に逃れて庇護を受けたが、393年に謀反を起こしたとして殺害され[3]、翟魏は完全に滅亡した。
翟魏の歴代君主
翟魏の元号
- 建光
- 定鼎
脚注
参考資料
- 三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)