皇后
皇后(こうごう)は、天皇や皇帝の妻のこと。一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうちの正妃(正妻)を指す。
日本の皇后位
日本の皇后一覧 も参照 古事記、日本書紀に従えば、古くは大王の妻妾を「キサキ」(后)と呼び、そのうちで最高位にあるものを「オオキサキ」(歴史的名遣いで「オホキサキ」)と呼び、単なる「キサキ」である他の妻妾と区別した。『古事記』では「大后」、『日本書紀』では「皇后」の漢字を当てている。「キサキ」とは元は“君幸”という意味があったとする説などがあるが、語源は定かではない。
後世「きさき」が皇后の意味を表すようになり、皇后を「皇后宮、きさいのみや」とも呼んだ。これにちなみ、皇后を母とする皇子女を后腹(きさいばら)という。別称(唐名)として、後漢書になぞらえて「長秋宮」、あるいは漢代の例をもって「椒房」「椒庭」と称し、和名では八雲御抄や後拾遺和歌集にみえる「紫の雲」などがある。「おうごう」とも読んだ。
皇室典範のもとでの敬称は「陛下」であるが、大宝律令のもとでの敬称は「殿下」であった。また、正式には「太皇太后宮」「皇太后宮」とともに「皇后宮」と呼ばれ、総称して三宮(さんぐう)という。「准三宮」という待遇・称号の語源はここにある。
「皇后」という称号が明文により規定されたのは、大宝律令の制定以後であるから、厳密に言えば、日本最初の皇后は、天平元年(729年)に聖武天皇の皇后となった光明皇后(藤原安宿媛)であるが、『日本書紀』が神武天皇以来の歴代天皇の「オオキサキ」に対して「皇后」の漢字を当てていることから、彼女以前の天皇の正妃についても「皇后」の称で呼ぶ慣行となっている。
大宝律令に皇后になれる資格を規定した条文はないが、皇后より一段下位の妻である妃の資格が「四品以上の内親王」と規定されていることから、皇后も当然内親王でなければなれないものと観念されていたとする考え方がある。『日本書紀』においても、仁徳天皇の「皇后」磐之媛を唯一の例外として「皇后」の父はすべて神または天皇・皇族である(もっとも、『日本書紀』の記事には後世における天皇の生母に対する顕彰によって贈られた「皇后」号も存在するとの考えがある)。しかし、光明皇后が磐之媛の例を先例として皇后に冊立されてから、このような制約はなくなり、むしろ皇族よりも藤原氏のほうが皇后の出身氏族として尊重されるようになった。
本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇の皇后として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。両者を区別するため、遵子には皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。さらに長保2年(1000年)、藤原彰子が皇后とされるに及んで1人の天皇が2人の皇后を立てることができる例が開かれた。このときは定子を「皇后宮」と改め、彰子を「中宮」とした。「皇后宮」も「中宮」もともに皇后であり、互いに優劣はないが、「中宮」のほうが実質的に天皇の正妻としての地位を占めている例が多い。
その後、皇后のあり方は次第に多様化した。天皇の母がすでに死去している場合、または生母の身分が低すぎる場合などに、母に擬して准母を定めることが行われた。その初例は、寛治5年(1091年)に堀河天皇の准母となった媞子内親王であるが、彼女が同時に皇后とされたことから、天皇の妻ではない女性が皇后に立てられる例が開かれた。このような皇后を、学術的には「非妻后の皇后」と呼び、あわせて11例ある。宮内庁の行政用語では「尊称皇后」と呼んでいる。媞子は「中宮」であったが、その後の非妻后の皇后はすべて「皇后宮」であった。のちには、准母の経歴がなくても、単に未婚の内親王を優遇する目的で「皇后宮」の称号が与えられた例も生じた。また、長承3年(1134年)には、鳥羽天皇が譲位して上皇となったあとに入内させた妻である藤原泰子を、治天の正妻であることを明示する目的で皇后(皇后宮)に立てた。さらに鳥羽は、永治元年(1141年)、同年に即位した自分の末子近衛天皇の生母藤原得子を、天皇の生母であることを根拠に皇后(皇后宮)に立てている。そのほか、死後に皇后を追贈された者が3名いる。
南北朝時代以降、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇后(中宮)に立てられた珣子内親王を最後として、皇后の冊立は途絶えた。再興されるのは、寛永元年(1624年)冊立の後水尾天皇の皇后(中宮)源和子のときである。以後、皇后が同時に2人立てられることはなくなり、また皇后はすべて「中宮」とされた。
明治元年(1868年)に皇后(中宮)となった明治天皇の皇后藤原美子が翌年に「皇后宮」とされて以来、「中宮」の称号は絶え、明治22年(1889年)の皇室典範の制定で、皇后の定員が1名となるとともに、正式に「中宮」の称号は廃止され、皇后に統一された。准母の制度も廃止された。また、皇族の父親を持たない皇后が、皇族身分を認められたのもこの時以来のものである。
中国の皇后位
中国においては、歴代王朝において皇帝の正妃としての皇后が存在した。陰陽五行説では男は陽、女は陰とされ、それぞれの頂点に皇帝、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。
日本の皇室には、そもそも姓がなく、名字も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、唐朝第3代の皇帝である高宗の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。しかし後に、皇帝位を簒奪してみずから皇帝を名乗り、新王朝を開くと共に王朝名を周とした(武周と称する)。武照は皇帝としては武則天と呼ばれる。中国歴代王朝のなかで唯一の女帝である。
日本・中国以外の皇后位
「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世界観の下での世界全体の支配者天子(皇帝)の正妃の呼称であった。従って、漢字文化圏の国家においては、最高位の君主の称号が皇帝あるいはそれと同等なものである場合、皇后も存在することになる。「王」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。
漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。
皇帝と皇后の訳語
ローマ帝国の君主の称号のひとつである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」、北アフリカのエチオピアの「諸王の王(ネグサ・ナガスト)」、インドのムガル帝国の「パーディシャー」、南アメリカのインカ帝国の「サパ・インカ」なども「皇帝」と訳される。これらの君主が一夫一婦制の婚姻形態を採っていれば、妻の称号は「皇后」となるはずであるが、実際には、世間に通用している通称や研究者による慣用などが優先し、一様ではない。
西欧キリスト教社会などの一夫一婦制度を採る世界では、皇帝の妻は正式には一人しか存在せず「皇后」または「皇妃」と訳されることが一般的である。一例として東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世の妻テオドラがある。彼女の地位は「皇后」または「皇妃」と訳される。
皇后と女帝
ヨーロッパ諸国の言語では、日本語の「皇后」に当たる称号は「皇帝」と訳される称号の女性形なのが一般的である(というより、ほとんどの君主称号・爵位がそうである)。この場合、称号だけでは、単に皇帝の妻であるのか、自らが帝位にある女性の皇帝であるのかは、区別できない。日本語に訳す場合は、前者は「皇后」、後者は「女帝」と訳し分ける必要がある。上記のテオドラはあくまでも「皇后」である。
ロシア帝国のエカチェリーナ2世は、もとは皇帝ピョートル3世の妻であり、その後クーデタにより自ら帝位についたものであるから、同一人物であり、ロシア語での称号は同じ単語でありながら、即位以前と以後とで「皇后」と「女帝」の使い分けが行われている。また神聖ローマ皇帝フランツ1世の妃マリア・テレジアは本来「皇后」であるが、彼女自身がハンガリー・ボヘミア女王を兼ねる実質的な君主であり、日本語でも「女帝」と表されることが多い。