海部壮平
海部 壮平(かいふ そうへい、1847年9月22日 - 1895年10月1日)は、幕末・明治初期の尾張藩士、養鶏農家。実弟・正秀とともに鶏種の改良に取組み、名古屋コーチンの原種となる海部種を作出したことで知られる。
目次
経歴
尾張藩士
弘化4年8月13日(1847年9月22日)、尾張藩士で藩の砲術師範をしていた海部左近右衛門家(に平井家から養子入りした父・左近右衛門と、母・者流(はる))の2番目の子(長男)・良太郎として生まれる[1]。
文久3年(1863)正月、16歳のとき、御目見得格の尾張藩士となる。同年12月、御城内大砲撃方。佐枝新十郎配下となる。[3]
明治2年(1869)3月、22歳のとき、父・左近右衛門が隠居を願出、同年5月に家督相続を願出、大御番組120石に任じられる。同年6月、版籍奉還の後、永世禄18石9斗を与えられ、名古屋藩に仕える。同年7月、砲術師範役の相続のため、矢田河原で砲術の公開撃ちを催す。同年9月、一等兵隊。同年暮、相続した左近右衛門名から、壮平に改名。[4][5]
明治3年(1870)、生活困窮による借米の返納分の天引きと、砲術稽古場・居屋敷の新築を藩に訴え出る。同年10月、尾張藩の帰田法発出を受け、同年12月に世禄返上と、春日井郡池之内村と上末村の境界の開墾地への帰田の願を提出した。[6]
明治4年(1871)正月に一等兵隊差免願を提出、同年2月に許可を受けた[7][5]。
同年7月、廃藩置県により名古屋藩士は失職。同年9月に士族・岡田時三郎の妹・すみとの縁組、同年10月に池之内村への移住を届出。[7]
- 池之内村には、弟・正秀が養子入りした海部七兵衛家の給地があり、庄屋をしていた松浦庄左衛門とその親族の世話を受けて移住することになったとみられている[8]。
同年10月-12月、姉すま・海部久蔵夫婦(海部俊樹の曾祖父)の家族、平井理右衛門の家族とともに池之内村へ移住[8]。
養鶏の開始
1873年(明治6)1月頃、3家族共同で万屋を開業[9]。同年5月、すみと結婚[10]。万屋では米などを商ったが、当初から売り上げが立たずに借財を重ね、1879年(明治12)に閉店した[11]。
万屋を経営中の1875年(明治8)、既に養鶏をしていた弟・正秀の勧めで鶏舎を建て、養鶏を開始[12]。1879年(明治12)頃から好景気・物価高騰と肉食熱の高まりにより、鶏肉や卵が収益を上げるようになった。万屋が閉店し、姉・すまの一家や平井理右衛門一家が名古屋へ転居した後、鶏舎を増築して、大規模な雛の繁殖を開始[13]。
1880年(明治13)には卵が100匁(375グラム)10銭でよく売れ、年間150円の収益があった[14]。これにより更に鶏舎を増築し、1881年(明治14)には鶏舎で500羽を飼育していた[15]。また鶏糞を乾燥させて保存し易くする器械を考案し、鶏糞を肥料として農家に販売した[16]。
海部種の作出
1882年(明治15)に鶏コレラ(ニューカッスル病)が発生し、鶏舎の鶏が全滅。感染症を発生させた責任をとって池之内村の総代を辞した。[17]
村人から借金をして養鶏を継続し、弟・正秀が入手してきたバフコーチンと近所の農家から分けてもらった地鶏を交配させたところ、1883年(明治16)にバフコーチンと地鶏の中間ほどの大きさで卵をよく産む新種の鶏が生まれ、「海部鶏」「海部種」「海部のウスゲ」などと呼ばれてよく売れるようになった。[18]
1884年(明治17)暮れには名古屋の高蔵に分場を設け、池之内で500羽、高蔵で700羽の海部鶏を飼育した[19]。
1885年(明治18)になると、養鶏業への参入者が増えて飼料が高騰し、他方で清国や朝鮮から安価な卵が輸入されて卵価が暴落。高蔵分場は閉鎖することになった。[20]
名古屋コーチン
その後、海部がどのようにして海部種から名古屋コーチンを作出したのか、詳細はよく分かっていないが[21]、1888年(明治21)に西洋種12種を購入して、5年にわたり自家の改良種と比較飼育して、改良種の方が強健で、肉味がよく、換羽期によく産卵するなどの特長が確認できたため、洋種を廃し、改良種の飼育を続けて、品種を固定化させた、などの記録から、海部種に近いものを残し、更に羽色が淡黄色の種を選抜するなどの品種改良を加えて作出されたと見られている[22]。
- 海部は自身の養鶏法を『養鶏方案』としてまとめた。入谷 (2000 157)は、『養鶏方案』は大阪の知人に貸したまま行方不明になった、としているが、(1890年に東京・上野で開催された)第3回内国勧業博覧会に出品されて有功3等賞を獲得しており、その内容は『愛知県勧業雑誌 第19号』(海部 1892 )に収載されている。
- (編注)しかし参照したところ、品種改良の方法には言及がなさそうである。
- 入谷 (2000 162-163,165-166)は、この頃、弟・正秀らの共同種鶏場には、淡色ブラマ、暗色ブラマ、白色・褐色レグホーン、ウーダン、ブリマスロック、ワイアンドット、ランシャン、黒色ミノルカ、スパニッシュなど様々な種類の鶏がいた、とされていることから、これらの種鶏が壮平の養鶏場に持ち込まれ、交配されたと推測している。
1887年(明治20)には再び養鶏ブームがあり、1888年(明治21)に海部の養鶏場は9棟34室で5,000羽超を飼育するまでに規模を拡大した[23]。
海部種は旧尾張国一円の養鶏家の間で普及し、同年の東海道線開通により、岐阜、大垣、滋賀県、京阪地方へ販路を拡大した。関西でも海部種は人気を博し、「名古屋から来た」という意味合いで「名古屋コーチン」と呼ばれるようになった[24]。
死去
1895年(明治28)10月1日、48歳のとき、鶏舎を見回り中に倒れ、そのまま死去。(池之内)大泉寺の峠墓地に埋葬された。法名・声顔法泉居士。[25]
1896年(明治29)4月、妻・すみと長男・義道らは、土地と家屋を売却し、名古屋市熱田区へ転居[26]。その後、東京都日野市から山口県下関市へ転居した[27]。1999年当時、子孫はシアトルや九州に在住[28]。池之内村にあった鶏舎の一部は松浦庄左衛門家に移築され、昭和期まで残っていた。[26]
追善大法会
1931年(昭和6)に、高橋広治の実弟で、業界誌『養鶏之日本』の社長に就任した高橋徳次は、下関に住んでいた妻・すみと長男・義道、東京の三男・飯田行信らを訪問し、また池之内の養鶏関係者らに取材して、それまで海部正秀が定説となっていた名古屋コーチンの作出者が海部壮平だったことを明らかにして海部の回顧記事をまとめ、同年8月13日に菩提寺の池之内・大泉寺で海部壮平追善大法会を開催した[29]。
著作物
- 海部 (1892) 海部壮平「養鶏方案」愛知県第2課(編)『愛知県勧業雑誌 第19号』愛知県(非売品)、1891年(明治24)11月調、1892年(明治25)2月出版NDLJP 1080884/3
付録
関連文献
- 高橋徳次「名古屋種作出者海部翁を偲ぶ」『養鶏之日本』1931年7,8,9月号[30]
- 愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年[31]
- 愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916[32]
- 石崎芳吉『副業養鶏』[32]
脚注
- ↑ 入谷 2000 23-28,198
- ↑ 入谷 2000 33
- ↑ 入谷 2000 48-49
- ↑ 入谷 2000 50-52
- ↑ 5.0 5.1 藩士名寄 NA コマ370
- ↑ 入谷 2000 53-54
- ↑ 7.0 7.1 入谷 2000 54-57
- ↑ 8.0 8.1 入谷 2000 75
- ↑ 入谷 2000 82-83
- ↑ 入谷 2000 84-85
- ↑ 入谷 2000 87-91,130
- ↑ 入谷 2000 114-117
- ↑ 入谷 2000 130-131
- ↑ 入谷 2000 131
- ↑ 入谷 2000 132-133
- ↑ 入谷 2000 134-135
- ↑ 入谷 2000 135-140
- ↑ 入谷 2000 142-143,146-147,148-154
- ↑ 入谷 2000 154
- ↑ 入谷 2000 155-156
- ↑ 入谷 2000 156-157
- ↑ 入谷 2000 166-167,169 - 石崎芳吉『副業養鶏』、愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916年(大正5)および愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年(大正15)による。
- ↑ 入谷 2000 174-175
- ↑ 入谷 2000 175
- ↑ 入谷 2000 177
- ↑ 26.0 26.1 入谷 2000 204-205
- ↑ 入谷 2000 206
- ↑ 入谷 2000 97-101
- ↑ 入江 2000 110-111
- ↑ 入谷 2000 110-111
- ↑ 入谷 2000 169
- ↑ 32.0 32.1 入谷 2000 166-167
参考文献
- 入谷 (2000) 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972
- 藩士名寄 (NA) 『藩士名寄』第15冊(徳川林政史研究所蔵本)