東京芸術劇場 (劇団)
東京芸術劇場は、かって存在した日本の劇団である。存続期間は短いが、付属研究所を設置し、運営に商業的視点を入れるなどの新機軸を打ち出した点で、演劇史では 重要な位置づけにある。「東芸」と略称された。
設立の経過
1945年12月14日、久保栄が滝沢修(旧新協劇団)、薄田研二(旧新築地劇団)とともに 東宝の後援を得て東京芸術劇場を結成した[1](p.72-73)。 成城の滝沢家に3人が1945年11月15日に集まり、設立趣旨を検討した結果、 それまでの演劇が芸的な純粋性を守るため、狭い範囲にのみ閉じ篭り、非営利的であった と総括し、新劇を大衆的規模に広げ、営利事業としても成り立たせる構想を策定した。 そのため劇団に加え、付属研究所の設置を構想した。
1945年11月15日、荻窪の薄田研二の家に集まり、東宝本社との交渉を踏まえて、 公演とユニット映画を組み合わせ、年6本の契約をすることが報告された。 研究所の普通部課程は1年とし、毎週3日、日に4時間の講義と実習を行うこととした。
公演
同年12月26日から28日にかけて、新劇合同公演として『桜の園』を有楽座で開演した。 入場料は税込13円50銭と4円の2区分とし、正午と15時30分の1日2回の公演であった。 主なキャストとして東山千栄子(ラネーフスカヤ)、村瀬幸子(ワーリャ)、薄田研二(ガ―エフ)、 滝沢修(エピホードフ)、千田是也(トロフィーモフ)、杉村春子(ドゥニャーシャ)、 中村伸郎(フィルス)、森雅之(ヤーシャ)が出演した。 演目を『桜の園』とした理由は特段の稽古をしなくともやれること、GHQが賛成した ことであった。超満員(6回の公演で9600名の入場者)のため、公演の収支は総費用3万円を 引いても、5000円から6000円の収益があり、毎日新聞社と東宝とで折半した[1]。
1946年1月9日(水)森雅之が入座することになった。
1月19日(土)、研究所の講義は、土方与志の演出論・演出実習、 久保栄の演劇概論・演劇史[2]、滝沢修、薄田研二の演技論・演技実習とした。
1946年(昭和21年)3月日から17日まで旗揚げ公演として『人形の家』(イプセン作、島村抱月訳、土方与志演出) を有楽座で公演し、旗揚げした[1](p.128)。 キャストは滝沢修(ヘルマー)、森雅之(ランク)、竹久千恵子(リンデン夫人)、 薄田研二(クロスダット)、信千代(ノラ)、山本安英(乳母)であった。 築地小劇場にあった1000点以上の衣装が戦争で灰になり、布地のない時代のため、 新しく作ったのはノラと乳母の洋服だけであった[1](p.130)。 東芸の第一回公演が『人形の家』となった理由は、封建的家族制度を打破し、 自由と解放の時代の到来により、人権の確立が来る時代を象徴したものであった。 千秋楽に近づくにつれ連日満員となったが、ノラの演技、竹久千恵子の一本調子の声 などから、さほどの好評を博さなかった[1](p.132)。 入場者は34回の公演で42,500名、77%の入りであった。 同年9月には、新協劇団と合同で「どん底」公演を行った。 『人形の家』の公演後は、演劇研究所の教育に力を入れた。 第一回研究生は、西村晃、川尻則子、菅井きん、牧よし子ら であった。 1947年(昭和22年)3月に帝劇で『林檎園日記』(原作久保栄)を初演した。 日華事変の頃の北海道の林檎園一家の没落の過程を描いた作品である。 園主の母の保守性とそれに対する子の反抗の悲劇性を描いた。 キャストは信千代(寿々)、森雅之(三代目園主)、滝沢修(信胤)、 荒木道子(道子)、小栗孝之(継男)、芥川比呂志(幸彦)、山本安英(志津子) 清水将夫(源三郎)、加藤嘉(川西今朝吉)、菅井きん(桜井トメ)であった。 音楽は吉田隆子(久保の共同生活者)が作曲し、演奏は東宝交響楽団、 指揮は上田仁であった。
分裂解散
興行収入は40%であり、東宝が期待した収入は得られなかった。公演の失敗は 東芸の解散と、久保栄の第一線からの後退につながった。 日本共産党は東芸の発足後、傘下に組み入れようとしたが、失敗したため、 組織的妨害に転じた。上演間際に刷り上がったポスター・チラシが すべて捨て去られたこと、『林檎園日記』の公演に合わせて新協劇団の 『武器と自由』が上演される、久保に悪意ある罵声が投げられたこと などである。 これらのことから東芸は1947年3月に分裂し解散した[3]。
その後、久保と別れた滝沢修は宇野重吉、森雅之らと第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を1947年7月28日に結成した。