明友会

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明友会(めいゆうかい)は、1950年代に活動した大阪愚連隊暴力団1953年頃、大阪府大阪市鶴橋駅高架橋下にある歓楽街生野区猪飼野近辺の不良アウトローが寄り集まって成立した愚連隊の連合組織・暴力団1960年に解散した。会員の大半は韓国人朝鮮人の若者で構成されていた。

成り立ち

生野区周辺や大阪のミナミを中心に戦後の群雄割拠した小団体との抗争を通して勢力を拡大させ、1950年代後半には600名を超える構成員を擁したといわれる。明友会という組織自体は現在のヤクザのような強固なものではなく、愚連隊の連合体というべき比較的もろい組織だった。1960年に三代目山口組との抗争(明友会事件)を引き起こし、猛攻の前に僅か2週間たらずで壊滅した。

最高幹部

明友会事件

明友会事件(めいゆうかいじけん)は、1960年8月9日から1960年8月23日に掛けて起きた三代目山口組と明友会との抗争事件。

1960年8月9日、大阪 ミナミのクラブ「青い城」で山口組組長・田岡一雄と大阪 十三中川組組長・中川猪三郎、山口組幹部の山本 広山広組組長)らが歌手・田端義夫の公演に関する労をねぎらっていた折、近くにたまたま同席していた明友会の幹部が田端に歌を強要した。その要請を中川猪三郎は慰労会で来ている事情を説明し断ったが、間髪を入れず明友会構成員に殴打された。店内は大立ち回りで一時騒然となったが、田岡一雄は身を挺して田端をかばい、その場は事なきを得た。

この一件で面子を丸潰れにされた山口組は激怒し、明友会から2度に渡り和解の仲裁を提示されたが和解案の内容自体が受け入れ難いものであったため、これを拒絶した。そればかりか、和解案が十分でなかったため、更に山口組の態度を硬化させる結果となった。

それでも明友会の会長・甲山五郎こと姜 昌興から諏訪一家総裁・諏訪健治を通して山口組の若頭補佐・山本 広(山広組組長)へと和解への努力は続けられたが、それを待たずして、今度は明友会の構成員6人が山口組の加茂田組構成員3人を殴打する事件がミナミで発生。もはや和解の道は完全に閉ざされた。

山口組からの明友会襲撃は若頭・地道行雄地道組組長)を指揮官として、加茂田組(組長・加茂田重政)、柳川組(組長・柳川次郎)、南道会(会長・藤村唯夫)等を中心に部隊が構成され、8月11日以降、明友会のアジトを次々容赦なく襲撃した。この襲撃には夜桜銀次なども参加していた。

8月20日には後の東大阪市にある有楽荘アパートを襲撃され死者を出すなど一方的な攻撃を受け、総崩れとなった明友会は別府の知人・石井一郎石井組組長)を頼って全面降伏を申し出た。この事件で山口組側は逮捕者84人を出し、その中で柳川組だけで逮捕者24人を出した。1960年8月23日、明友会側は会長・姜 昌興以下、最高幹部15人の指を詰め手打ちを行い抗争は終結した。

影響

ミナミにおける明友会勢力は消滅し、代わって田岡一雄の大阪の舎弟・藤村唯夫が率いる南道会勢力が躍進した。神戸の溝橋組(組長・溝橋正夫)など山口組傘下団体が大阪に進出。また明友会から小田秀臣が独立、山口組傘下に鞍替えした(後の山口組若頭補佐、小田秀組組長、集団指導体制化での序列は4位と目された)。

加茂田重政が戦闘隊長として前線に立ち、警察の山口組への追及を自分で食い止め長い懲役に行くことになった。長い目で見た場合、この大功績が(若頭だった地道行雄を除き)ナンバー2の山本健一山健組組長)やナンバー3の山本 広たち以上の勲章となり、逆に三代目組長・田岡歿後の迷走に拍車を掛ける結果となった。

地道行雄の大阪の舎弟であった柳川組の実力を本家の山口組が認めた結果、これ以降の戦闘の修羅場に彼らを送り込むことを決意させた。また、後に三代目の懐刀とされ沖縄和平交渉や東海関東の系列化に大功績のあった「山口組のキッシンジャー」黒沢 明が世間に出る契機となった。黒沢は事件後10年以上の長期服役を余儀なくされている。柳川組出身で この時点では地道組舎弟。引退後は野村秋介とも親交を深め共にフィリピン ゲリラによる日本人カメラマン誘拐事件の解決に尽力したのも報道された。

なお山口組が見せた明友会事件での統制されていた指揮系統や、電光石火の機動力に、地元・大阪であぐらをかいていた、数ある在阪暴力団組織の危機感を煽ることとなり、のち南一家中政連合酒梅組東組砂子川大野一家直嶋義勇会淡熊会土井熊組高村組倭奈良松田組諏訪一家など、在阪暴力団は近代的に系列化を進めることとなる。