帰田法

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帰田法(きでんほう)は、明治3年(1870)11月に名古屋藩が藩内で実施した士族授産政策。希望する士族に士族籍を残したまま藩内の適当な土地を与えて帰農させ、別に手当金や生活費を支給。希望しない者には一律17.5石(50俵)の均禄を支給する制度だった。対象者約7,600人のうち370余人が応募したが、割当てる土地や手当金の財源の不足から十分な効果が上がらないまま、廃藩置県の後、旧藩の家禄制度を引き継いだ明治政府によって明治5年(1872)に廃止された。

背景

明治2年(1869)6月、版籍奉還で旧尾張藩主の徳川徳成名古屋藩知事に任命された[1]。その家禄は、藩の現米総高の1割におさえ、家士一門、平士に至るまでを士族として、士族以下の家禄を旧藩主に準じて適宜改革(削減)すべきことが命じられた。[1]

名古屋藩の場合、元治元年(1864)から明治元年(1868)までの5年間の租納・諸産物・雑税の平均は現米269,067.283石、知藩事の家禄は26,907石、士族・準士族・卒7,613人の家禄は計104,202.188石で、家禄の合計(約131,109石)は現米総高の50%近く(約48.7%)に及んでいた。[2]

明治2年(1869)11月25日に名古屋藩は禄制改革を実施し、士族のうち、現禄10,321石~50石の家禄を45等級に分け、家禄3,000石以上の場合、1割削減。それ以下は、295俵を最上の禄として、「損上益下」の割合をもって節減し、100石未満、50石以上の場合、一律50俵とした。[3]

家禄の削減は士族以下の生活に大きな打撃を与え、困窮した士族の子弟が親元を離れて浮浪化するなどして、治安上問題視された。藩庁は「兵力充実」「人材生育」をはかるため、16歳以上40歳以下の者を兵隊に編入して月給を支給するなど、窮乏の緩和策を講じることなった。帰田法も、家禄の削減により困窮した士族の救済策として実施された。[4]

制度創設

明治3年(1870)9月、知藩事・徳川徳成の実父・徳川慶勝が、門閥の旧弊を除いて役人の欠乏を補い、人材登用の道を開くためとして、士族の家禄を奉還させ、帰田させることを政府に願い出て、許可を得た[4]

同年11月、名古屋藩は、帰田法均禄法を藩内に通達[4]。希望する士族には、士族の籍を残したまま、藩内の適当な土地に分散帰農させ(帰田)、希望しない者はこれまでの禄高に関わらず、一律17.5石(50俵)を支給する(均禄)という内容だった[4]

  • いずれを選択するかは自由裁量だったが、帰田を促進させる意図があったとみられている[4]

帰田の後、当初7年間は従来の家禄を1石=8両で換算した手当金、その後3年間は、別途手当てとして禄高に関係なく1年の均禄として140両(17.5石相当)を支給し、また当初5年間は生活費として扶持米(1日1人5合宛の割合で、毎月6人扶持)が与えられることになっていた。[5]

下付した手当金を田地の購入や移住など帰農の諸経費に充てさせ、扶持米によって生活を保障し、帰田しても士族の身分が保障されるという、士族授産政策だった。[4]

運用・効果

帰田には、370余人の士族が応募した[4]

しかし、応募した士族に割当てる土地は不足していた。明治3年(1870)12月、名古屋藩[6]は、政府の弁官に、管内に未開墾地が少なく、多人数の帰田に対して分与する土地がない、として、伊勢国鈴鹿郡広瀬野の支配委任を願い出たが叶わず、明治4年(1871)3月に尾張国春日井郡田楽村字・定納山のうち約50町歩を取得して一部の帰田士族に割り与えた。それでも大部分の士族は自ら土地を確保しなければならない状態だった。[4]

また、帰田法の実施で、富裕層の土地を取り上げ、士族に分与するとの風説が流布[4]。藩は、田地の自由販売を許可すると同時に、土地所有者の不安を取り除く対応にも追われた[4]

資金難のため、手当金を支給することも困難だった[4]。明治4年(1871)2月9日に、徳川慶勝は御用達の農商人約1,000人を名古屋城内に招き、二之丸御殿で饗応した後、城内の建物の処分を任せるので、かわりに帰田する士族への手当金を提供してほしいと働きかけた[7]。それでも1年間の支給見込総額20万両に対し、10.4万両しか調達できず、帰田した士族に額面どおりの手当金は渡らなかった[8]

応募する士族の側も、境遇の激変を伴う冒険的な帰田法よりも、(特にもともと低禄だった場合、)減禄になっても均禄法を選択することが多かった[8]。また、帰田願いを出したものの、帰田せずに手当金を生活費に費消したり、農村に居住していても農耕に従事せず、市中に出て商いをするものも多かった[8]

廃止

明治4年(1871)7月に廃藩置県、同年11月に府県の統廃合が行われ、旧尾張藩領を管区とした名古屋県は廃止され、旧尾張藩領のうち美濃方面は岐阜県に、木曽方面は筑摩県に編入され、新名古屋県は尾張地方のみを管区とした。帰田士族の所管も各県に分かれることになり、生活保障を伴う帰田法の継続は困難になった。[8]

廃藩置県によって旧藩の家禄負担は政府が引き継ぐことになり、明治5年(1872)2月、政府は、各藩区々の禄制や授産方法を統一・整理するため、帰田法を廃止。帰田士族の家禄は廃藩以前の禄高に復帰することとなった。[8]

評価

藤田 (2010 62)は、名古屋藩における帰田法は、実施に際して困難に直面し、中途半端な形で終了することになり、士族授産事業としては目立った効果はなかった、と評価している。[4]

同書は、尾張徳川家は1878年(明治11)以降、士族授産のため北海道開拓に乗り出すが、そのとき教訓になったと思われることとして、

  • 広大な土地と十分な資金を用意すること
  • 帰田者を放任にせず、常に管理・統制すること
  • 帰農者の気力充実をはかり、生活不安を解消させること

などがあり、その対策として、北海道の開拓にあたっては、

  • 広大な未墾地を獲得し、生活保障のために十分な資金援助が行われた
  • 数人の委員を任命して、移住者の農事や生活を管理させた。北海道で開墾指導に当たる委員と交流を密にしていた

としている[8]。また同家の北海道開拓には、帰田法が廃止された後も帰田を続けていた吉田知行角田弟彦らが主導的な役割を果たした[8]

付録

関連文献

  • 細野忠陳『葎之滴見聞雑剳』巻廿三-廿四、名古屋市図書館 市9-151
  • 吉川 (1943) 吉川秀造「名古屋藩の帰田法」『明治維新社会経済史研究』日本評論社、1943、NDLJP 1281186 (閉)またはNDLJP 1276179 (閉)

脚注

  1. 1.0 1.1 藤田 2010 60
  2. 藤田 2010 60 - 細野忠陳『葎之滴見聞雑剳』による。
  3. 藤田 2010 60-61
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 藤田 2010 61
  5. 藤田 2010 61,79
  6. 同月3日、徳川徳成は病により藩知事を辞職し、徳川慶勝が名古屋藩知事に就任。帰田御用掛として、少参事・白井逸蔵、権少参事・中川直三郎、同荒川弥五右衛門が任命された。(藤田 2010 61)
  7. 藤田 2010 61-62
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 8.6 藤田 2010 62

参考文献

  • 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111