岬にての物語
『岬にての物語』(みさきにてのものがたり)は、三島由紀夫の短編小説。1946年(昭和21年)、文芸雑誌『群像』11月号に掲載され、翌年1947年(昭和22年)11月20日に桜井書店より単行本刊行された。同書には他に2編の短編が収録されている。現行版は新潮文庫で重版されている。1968年(昭和43年)11月には、三島の名指しにより蕗谷虹児の装幀で豪華限定版も刊行された。
11歳の夏に母と妹と行った房総半島の鷺浦という海岸での思い出を、一人称「私」によって夢想的に回想し物語られる作品である。この短編を書いている最中、三島は1945年(昭和20年)8月15日の敗戦を迎えた。舞台となっている房総半島の避暑地は、三島が1937年(昭和12年)の夏、母と妹と弟と訪れた千葉県勝浦市鵜原である。
三島由紀夫と蕗谷虹児
『岬にての物語』は、三島の死の2年前の1968年(昭和43年)に、豪華限定版として再刊行されたが、その際の装幀として、出版社の川島勝は初山滋の抽象的な色感あふれる絵を頭の中に描いていたが、三島は、装幀を蕗谷虹児にしたいと要望した。高畠華宵や加藤まさを風な少女像も魅力だが、蕗谷虹児の様式美の方がこの作品にふさわしいというのが三島の意見だったという[1]。
川島は、「三島は『花嫁人形』の作詞家が蕗谷虹児と知ってこの画家を選んだのだろうか」と述べ[1]、三島が装幀に蕗谷虹児の少女像を選んだことに、「妹(美津子)の死と失恋(三谷信の妹・邦子)と三島自身の青春への訣別が色濃く反映されていた」としている[1]。
あらすじ
幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費すことをも惜しまぬような性質であった。その性向は乾燥し寿(いのち)衰えつつも、今なお根強く残っている。しかし、夢想は私の飛翔を、一度だって妨げはしなかった。千夜一夜譚は与えられた書物に俟つべくもなく、私自身の手で書かれるべきであった。夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺という過程を経なければ獲得できない或る種の勇気があるものである。
11歳の夏、私は母と妹とで、房総半島の鷺浦という海岸で過ごした。老成(ませ)てはいても病弱で発育の遅れた私は7歳くらいにしかみえなかった。父は私に泳ぎを覚えさせようと書生の小此木(おこのぎ)を泳ぎの教師としてお供させた。彼のことを私はオコタンと呼んでいた。しかし私の頑固さにオコタンは水泳教授をあきらめた。その日も私と母と妹とオコタンは海岸に向かった。私は波を見ているか傘の下で本を読んでいた。昼頃、母と妹は伯母が訪ねて来たという知らせを受けて先に帰っていった。私は泳ぎたそうにしているオコタンを泳がせて、潮風に吹かれながら傘の下に寝転がっていた。ふと冒険心に促され、私は東へめざして何となく歩きだし、美しい岬へ向かった。
岬の頂きへ行くと、荒廃した小さな洋館があった。中からオルガンの音が聞こえていた。近づくと若い美しい女の歌声も聞えた。私は洋館に忍び込んで椅子に腰掛けた。奥の部屋から聞えるオルガンはこわれているらしく、或る音は軋りを立て、或る音は全く聞えなかったが、それがその音楽に神秘な感じを与えていた。椅子を座りなおす私の音に気づき、部屋の中から18歳位の美しい女の人が出てきた。「まあ、どこの坊ちゃん?」、「お家はどこ?」と訊ねる彼女は優雅なやさしさと美しい頬笑みにあふれていた。急に扉があき、1人の青年が入ってきた。彼は20歳位で彼女と相似た頬笑みと涼しい目もとであった。
私と二人は、岬の突端に散歩に出かけた。やがて彼女が隠れんぼをしようと提案した。私が鬼になり目を瞑って100を数えている時、断崖の方角から鳥の声に似た悲鳴のような、笑い声のような短い叫び声を聞いた。何か高貴な鳥の声か、神々の笑いたもうた御声のように私には思えた。数えおわり、私は二人を捜した。しかし二人は見つからなかった。不安と心細さと故しらぬ同情で私は泣いた。私は幼いながらも二人の悲劇を理解し、岬の先端を見た。私は断崖に行き、身を伏せて奈落の美しい海を覗いた。それは同じ無音の光景で、私の目にはただ、不思議なほど沈静な渚がみえた。
私は弁財天の境内へ下りて、そこにいたオコタンに泣いてしがみつき家に帰った。私は家族の誰にも、この出来事を話さなかった。親のみか私以外の人には決して語ってはいけないような気がしていた。東京へ帰省する汽車の中、私は水泳を覚えなかったことを父から叱られるだらうと思った。しかし、私には不思議な満足があった。水泳は覚えずにかえって来てしまったものの、人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えて来たからである。
作品評価・解説
渡辺広士は、「すでに少年の習作ではなく、物語として見事に組み立てられている」[2]と述べ、導入部は現実的であり、作者自身の明晰な自己省察があるとし、この自己への明晰さを可能にしているのは、「“私の本来のものなる飛翔”への信頼というプリズム」だと解説している[2]。そして、『岬にての物語』における「自己省察から飛翔への移行」(現実から夢想への移行)は見事だと述べ[2]、「ロマン的な海とそこに突き出した輝く岬の自然が、その“憂愁のこもった典雅な風光”にふさわしい古典的な文体で語られていく」と解説している[2]。また、作中の少女には、同じ三島作の『苧菟と瑪耶』の瑪耶と同じように、永遠のマリヤの面影があるとし[2]、作中の、「青年と少女の頬笑みには甚く相似たものがあつた」というくだりは、兄と妹の愛を暗示していると述べている[2]。
三島作品と接してきたという作詞家の売野雅勇は、「主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に『岬にての物語』で海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す」とし[3]、『岬にての物語』を最初に読んだときから、「少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた」[3]と述べている。そして、「陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなもの」が売野自身の心のうちにあるのだろうかと考えつつ[3]、「あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか」と思いを馳せ[3]、「聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む最大の快楽のひとつになっている。言葉の音楽である」[3]と述べている。
筒井康隆は、『岬にての物語』がガブリエーレ・ダンヌンツィオの『死の勝利』の文体、描写、ディテールなどの影響を受けているとし、両者がどちらも男女の情死を扱い、心中の方法がどちらも断崖から海への飛び込みであることを挙げている[4]。しかし、『死の勝利』の方は無理心中であり、「世紀末の懐疑主義や頽廃」的な作品なのに対し、『岬にての物語』の方は、三島自身をモデルにした少年の眼で美貌の青年男女の情死行を、日常のようになごやかに眺めており、「極めてロマンチックなもの」だと解説している[4]。
おもな刊行本
- 『岬にての物語』(桜井書店、1947年11月20日)
- 限定版『岬にての物語』(牧羊社、1968年11月15日) 限定300部(記番・署名入)
- 文庫版『岬にての物語』(新潮文庫、1978年11月27日)
脚注
参考文献
- 文庫版『岬にての物語』(付録・解説 渡辺広士)(新潮文庫、1978年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第16巻・短編2』(新潮社、2002年)
- 筒井康隆『ダンヌンツィオに夢中』(中公文庫、1996年。再版1999年)