太平洋会議
太平洋会議(たいへいようかいぎ)
第1回
1925年にハワイ・ホノルルで、汎太平洋YMCA会議(Pan Pacific YMCA Conference)として太平洋沿岸諸国のYMCA同盟を中心として開催された[1]。理事長はホノルルYMCAのフランク・アサトン だった[1]。
日本からは宗教学者の姉崎正治を団長として、沢柳政太郎らが出席[1]。アメリカ側は、長崎YMCAや東京YMCAの名誉主事だったマール・ディヴィス が幹事長を務めた[2]。
第2回
1927年、ハワイで開催[3]。英国代表も参加し、スタンフォード大学学長のウイルバー が議長を務めた[3]。
会議は政治的な色彩を強くし、議論には結論を出さないと予め決めた上で、太平洋をめぐる国際的な重要課題を議題にし、学術的な資料が集められた[3]。
池田 (1995 182)は、第2回まではYMCA色が絶対だった、と評している。
第3回
1929年、京都で開催[3]。日本軍が1927年-1928年の山東出兵により蒋介石の北伐を阻止しようとし、1928年に河本大作が張作霖を爆殺したことを受けて、満洲問題が議論の中心となり、日本の松岡洋右と中国の燕京大学・徐淑希博士との間で、激しい議論になった[3]。
松岡は「満蒙は日本の生命線である」という1933年の国際連盟総会での加盟脱退演説のリハーサルのような演説をし、これに対して徐博士は、歴史的に満洲が日本のものだったことはなく、中国の一部だった、条約上の日本の権益が主張されているが、条約それ自体が無効だと主張した[3]。
- 池田 (1995 181)は、日本側の出席者はリベラルな思想の人が多く、松岡のタカ派的な思想とは違っていた、としている。
このため、演説の応酬では日中間の意思疎通にならないし、建設的な解決につながらない、として、毎晩8時から10時頃まで日中懇談会が開かれた[3]。
池田 (1995 182)は、(第3回までに)日本以外の国でも太平洋問題調査会が組織され、YMCA色は漸次薄れてきた、としている。費用もYMCA関係からではなく日本の財閥と満鉄などの出費によっており、そのため満鉄理事だった松岡が会議に出席できた、と指摘している[4]。
第4回
1931年、9月に満州事変が勃発した後で、上海の英租界にあったサクスン・ハウスと杭州で開催された[5]。幹事役は東大法学部政治学科の高木八尺、YMCA同盟の斎藤惣一[3]。YMCA色は薄れていたが、中国代表や日本代表の責任者らはキリスト教者だった[6]。
日本代表は新渡戸稲造、松岡洋右、頭本元貞、岩永裕吉、金井清、前田多門、鶴見祐輔、高柳賢三、高石真五郎、信夫淳平、蠟山政道、松田竹千代、那須皓ら[3]。
中国代表は南開大学総長の張伯苓 、中国YMCA同盟総幹事の余日章 、YMCAの陳立廷、北京大学の鮑明鈴 、何廉 、大公報 の社主・呉鼎晶 、金陵女子大学学長の呉胎芳 ら[3]。
米国代表はコロンビア大学のJ. ショットウェル 、ハーバード大学総長補佐のJ. グリーン 、ジェームズ(不詳)、マクドナルド(不詳)ら[7]。
英国代表はヘイルシャム卿 を団長とし、アイリン・パワー 、マルコルム・マグドナルド 、アーノルド・トインビー ら[4]。
会議の詳細については松本重治の『上海時代』の上巻(松本 1974 )、松本重治ほか『われらの生涯のなかの中国』(伊藤ほか 1983 )を参照[4]。また同年10月12日-24日にかけて『英文毎日』に掲載された新渡戸稲造の上海滞在中のメモに会議への言及がある[8]。
席上、鶴見祐輔は、満州事変における日本の行動を擁護。新渡戸稲造は、日本を侵略国と批難した中国代表・陳立廷を批判する演説をした。[9]
上海での会議に続いて杭州で理事会形式の会が開かれ、日本代表は阪本義孝ら5人が出席した[10]。
関連資料
- 新渡戸 (1969) 『新渡戸稲造全集 第16巻』教文館、JPNO 74005593、pp.275-
- 松本 (1974) 松本重治『上海時代 ジャーナリストの回想 上』〈中公新書〉中央公論社、JPNO 72011243
- 伊藤ほか (1983) 伊藤武雄ほか(述)阪谷芳直・戴国煇(編)『われらの生涯のなかの中国 六十年の回顧』みすず書房、ISBN 4622008416
付録
脚注
参考文献
- 石塚 (2010) 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、ISBN 978-4876019120
- 池田 (1995) 池田鮮『曇り日の虹 上海日本人YMCA40年史』教文館、ISBN 4764299186