佐藤市郎
佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日 - 1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人、歴史家。最終階級は海軍中将。第56、57代内閣総理大臣岸信介、第61、62、63代内閣総理大臣佐藤栄作兄弟の実兄。
略歴
山口県熊毛郡田布施町 に、父・佐藤秀助、母・茂世の長男として生まれた。弟である岸信介は、「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と語っている。
東京府立四中を経て、海軍兵学校36期・海軍大学校18期(同期には南雲忠一がいる)において、在学中はほぼ満点に近い成績(海軍兵学校時代は平均97.5点)を残した(いずれも首席)ため、「海軍始まって以来の秀才」と称される(ただし、海軍兵学校36期の卒業順位は、192人中2番で成績は優等とされている場合がある。これは、卒業順位1位が有栖川宮栽仁王とされているからで、実質的には首席である)。1927年のジュネーブ海軍軍縮会議には日本海軍を代表して参加する。同年には連合艦隊首席参謀、翌年には「長良」艦長と順調に昇進して、主に軍令部で活躍した。
海軍大学校教頭を経て、1938年には、海軍中将・旅順要港部司令官(昭和13年11月15日-昭和14年11月15日)となったが、病弱であったために2年後の1940年には退役を余儀なくされる。このとき、勲一等旭日大綬章が贈られている(昭和15年4月29日)。引退後の1943年に『海軍五十年史』を執筆した。
なお、佐藤市郎の妻、多満と子息、信太郎 による『佐藤市郎―軍縮会議回想録・その生涯』(1991年、私家版)という本がある。この本は、佐藤市郎が参加した1927年のジュネーブ海軍軍縮会議(「壽府三国会議秘録」)、1930年のロンドン軍縮会議(「倫敦会議抜き書」)の二つの覚え書きを元にした回想録である。さらに、2001年、佐藤信太郎編『父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録』が文芸社から出版された。
系譜
- 佐藤家
- 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)頃から萩藩の士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士であり、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。7代目の佐藤嘉津馬は安永八年(1779年)12歳で病死する。佐藤家はこの7代まで現在の山口市南部にあたる大内町御堀の周辺に住んだ。7代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の3男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝であり、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
- 曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家吉田松陰に兵要録を授けた。明治になると、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。
- 祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。父・秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた[1]。佐藤家の家紋は“源氏車”である[2]。[3]
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