三河真木氏

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真木氏(まきし)は、牧氏・槙(槇)氏とも称する。信長公記に、小牧山を小真木山と当てている用例があることから、牧=真木と考えられている。

観応元年/正平5年(1350年)、河内国古市郡[1]真木村より、金山比古神(かなやまひこのかみ)・金山比売神(かなやまひめのかみ)を奉じ、鍛冶屋職人を引率して宝飯郡に渡来した一族。その本拠地を鍛冶村と呼んだ。

長岡藩越後国)・小諸藩信濃国)の上級家臣、槙氏・真木氏の先祖。「宝飯郡鍛冶村古屋敷・真木越中守定善・同善兵衛」(三河国二葉松)とみえるほか、永禄4年(1561年)に真木兵庫之助重信が牛久保及び一戦で、奮戦した記述がみえる(真木家文書・東京大学史料編纂所蔵)・(詳細→真木氏 (牧野家重臣))。

ここでは、宝飯郡に勢力を持った牛久保六騎東三河司頭と称された牛久保に本拠を置いた真木氏について主に説明するが、三河真木氏の事績については、牛久保城牧野保成牧野成定などを併せて参照されたい。

牧氏は東三河に限らず、三河国全域及び、周辺の尾張国駿河国にも分布する。三河国の牧氏の概要については、三河牧氏を参照のこと。

概要

河内国古市郡は、弥生時代古墳時代から渡来人が多く居住して、製鉄・鍛冶が盛んな地域である。時代が下って鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、橘姓を自称した楠木正成楠木正行の勢力圏であった。

河内国から三河国宝飯郡に渡来した牧氏(槙氏)は、宝飯郡鍛冶村(現住所は愛知県豊川市中条町)に金山比古神・金山比売神を鎮座させて、正五位下・加知天神(中條神社)を建立。神官神職には牧氏が連綿と着座した。加知天神は三河国神名帳にみることができ、明治大正期に近隣の小さな神社を合併してたが、村社熊野神社を合祀したことを契機に大正3年(1914年)1月7日から中條神社と称するようになった。同神社内に鎮座する金山彦大明神の棟札(成立年月不詳)に真木伊右衛門・真木宗太郎の名が見える。

中條神社(加知天神)の解説によると、南朝の拠点であった吉野山に最後まで踏みとどまった真木定観(あるいは真木野定観)の末裔たちが、同地に渡来して、刀鍛冶になって創建したとしている(諸説あり)。

江戸時代の中條神社(加知天神)の神官神職は牧氏にほぼ独占されていたが、その先祖は真木定観であると主張している。

厳密には、中條神社社記をはじめとする同神社関係の古文書には、神官神職に牧氏・槙氏と云う姓を見ることができるが、真木姓を見い出だせない。

そのうえ、この伝説には多くの矛盾がある(詳細は、下記の真木定観末裔説を参照)。

中條神社所在地の室町・戦国期の領主は、真木氏であり、また真木氏が、しばしば槙氏と表記していたこも疑いがないので、両者は同族異流であるとみられる(出典、三河国二葉松・真木家文書・譜牒余録収載文書の刈谷・水野信元の添状など)。[2]

宝飯郡に鍛冶屋のギルド)があったとの史実はないが、それに近い存在があり、真木氏はその庇護者であったことは、ほぼ確実である。

鍛冶屋の長者・指導者となっていた真木氏家系の一つが、次第に実力を蓄え土豪化して、隣国の戦国大名今川氏に与してその三河国侵略に協力要出典。また室町・戦国期の三河牧野氏における股肱の年寄、若しくは寄騎として牧野氏に尽くした。

真木越中守を称した家系は、牧野氏の発展と共にあったが、牧野氏が徳川派(松平派)と、今川派に分裂するに及び、今川派の牧野保成等の今川派牧野氏と共に行動をして、松平清康や、徳川家康に頑強に抵抗したため、特に戦国末期から近世にかけて凋落したが、家康の降伏の勧めに応じて追放や蟄居は免れた。やがてその一族の多くは、譜代大名となった牧野氏によって家臣団化された。

戦国時代の末期、真木氏と関係の深い牧野氏や、岩瀬氏は、葬地を光輝庵としていたが、真木氏は神社仏閣等の敷地ではない一本松(現住所は豊川市山道町)に独自の葬地を持っていた。[3][4]

牛窪密談記にある牧宗次郎の記述

牛窪密談記では、牧宗次郎(真木トモ)が享禄2年(1529年)、吉田城主・牧野氏のため力戦したことが描かれている。


三河真木氏をめぐる仮説・伝説

三河真木氏及び、その末裔である譜代大名牧野家重臣の真木氏・槙氏に関する総合的・体系的な研究は、アカデミックな場では、ほとんど存在しないのが現状である。

まとまったものとしては、高等学校地理歴史科の教師であった加藤誠一の研究論文・著述がある程度である。以下は、この文献を参考としたものである。

牧野氏と真木氏は近縁か

東海日日新聞の特集記事、東三河と長岡では、「マキ(真木、槙、牧)姓は、発音からも文字からも、牧野姓とはきわめて近縁で、真木又次郎は牛久保牧野氏一党の一員だと考えられます」とあり、また学生の卒業論文、アマチュア郷土史家の投稿論文などにも、同様の記述がしばしばみられる。

しかし、これらは史料学的な根拠はなく、各種の真木氏・槙氏の家系図にも牧野氏の分家・庶流を意味する家系図は存在しない(但し、養子縁組を記述した系譜はあり)。

天文7年(1538年)発給の牧野氏・真木氏等4名連署の判物が現存する。

このように真木氏が、牧野氏の同族異流となるか否かについては、確実な文献は存在せずに定説をみないが、16世紀に真木氏が牧野氏の一族を意味すると思われる田内左衛門・伝右衛門を通称として、使用していたとする有力な伝説がある(愛知県長谷寺の過去帳、及び同寺発行のパンフレット)。

しかし、田内左衛門を通称として用いていたとしても、懐柔若しくは、褒美として、その称を許した可能性もあり、直ちに同族異流・近縁であるとは断定できない。

また真木氏の本姓は、橘姓であるとするが、一般論として橘姓と紀姓は、音読みがキツとキで紛らわしいことから、段々と混同されていったことは、姓氏研究者の常識である。

三河牧野氏譜代大名牧野氏の多くの家譜も紀姓であることから、真木氏も本姓は、実は紀氏ではないかとする仮説が存在する。また理論上はその逆もあり得ることになる。

こうしたことを根拠に、牧野氏と真木氏は、かなり遠縁とはなるが、同族異流となるとする見方もできる。

同族異流となるとすれば、どこまで遡れば同一の先祖が現れるのか、また牧野氏が三河渡来後か、渡来前の四国在所当時からの一門衆であって、三河国に随従してきたかが問題となる(但し、牧野氏の四国からの渡来を否定する学説もある)。

真木定観末裔説

中條神社社記を素直に読み、三河真木氏を名門・著名人の末裔としたければ、南朝の忠臣である真木定観末裔説は妥当である。

しかし、真木定観は大和国を在所とする一方で、中條神社神官牧氏(槙氏)は河内国古市郡から、渡来したとする。

真木定観末裔説の最大の弱点は、真木定観は、清和源氏である一方で、三河国宝飯郡から牧野氏に随従して、やがて家臣団化された三河真木氏の末裔たちは、橘姓を称していることである。

真木定観は、大和国宇智郡牧野邑発祥の清和源氏・牧野氏の支族であるとされるが、確定的な系譜は知られておらず、その出自については史料も乏しく、どのような仮説も立てられる状況ではある。

この牧野氏は護良親王を奉じて大和上村城で籠城した南朝系武士である。

三河国宝飯郡牧野氏(田口姓牧野氏)、及びこれの末裔となる譜代大名となった牧野氏は、北朝系武士であるとされ、大和国牧野氏との関係を結びつける史料はまったくないが、北朝系武士であるとする根拠は、伝承にもとづくものであり、断定するだけの史料はないのである要出典

一般論として本姓は、ご都合主義で、子孫が勝手に変更することが、しばしばあったので、あまり厳密に考える必要性はないとの指摘もあるが、清和源氏から橘姓に改称することは稀である。要出典

三河国宝飯郡の中條神社は、北朝観応元年・南朝正平5年(1350年)の創建を伝えるが一方で、真木定観は、1352年に後村上天皇を奉じていることが、太平記に記述されている。

このため三河真木氏が真木定観の直系子孫と見ることにについて、加藤説は懐疑的である一方で、これを矛盾と捉えなければ、畿内の鍛冶集団であった真木氏等が数次にわたって、河内国から既に宝飯郡に渡来していた真木氏等を頼って移住してきたことになるとしている。

これは三河牧野氏が数次に渡って、四国から渡来したする説とよく似ている。

また真木定観末裔説を補強する傍証として、16世紀に牛久保城主・牧野氏と縁が深いとみられる真木氏の一族・真木宗成(念宗法印)が、大和国長谷寺に赴いて出家して帰郷し、同地に長谷寺を建立し、牧野家の守本尊を奉っていたとする伝説が存在することをあげている(愛知県豊川市長谷寺伝説)。

大和国長谷寺は、南朝の不利が決定的になった後も、南朝に加勢し、真木定観の一子、宝珠丸等を大将として、高師直軍と水越合戦(現、五條市)をおこなっている。こうした縁故があったからこそ、東三河から、遠く離れた同寺院に修行に赴いたと推察される。

鍛冶は、賎民の職業とは限らないが、真木氏の起源を鍛冶集団とするならば、中世の散所には、鍛冶職人が多く定住していたことに注目すべきである。

彼らは散所の長者・悪党であった南朝の英雄、楠木氏の支配・影響を当然に受けていたはずである。

また大阪府の旧古市郡となる羽曳野市富田林市などのハンナン地区には、鍛冶屋を先祖に持っていたとの伝説を持つ真木氏が、現代にも残っている。 [5]

こうしたことから、加藤説は、真木定観末裔説を、完全に否定することにも、懐疑的であり、下記の折衷説二つを仮説としてあげている。

  • 楠木氏に支配されていたマキ氏(あるいは南朝系鍛冶集団)が、楠木氏と南朝が衰亡する中で、まず中條郷に渡来して、その後に南朝方の真木定観の残党などが数次にわたって、これを頼って中條郷に渡来してきた。
  • 真木氏(牧氏・槙氏)は、全国的にみて鍛冶集団の職業姓として使用される傾向[6]があるため畿内の南朝系鍛冶集団の一部が中條郷に渡来し、その集団の長(または実力者)であった真木定観を崇敬してその末裔を称した。

故地の河内国真木村

中條神社では真木氏を河内国古市郡真木村の発祥としているが、同国同郡内に史料学的に証明できる真木という地名が存在しないために問題となる。

河内国真木村の所在地について、加藤説は、下記の2つを仮説としてあげている。

  • 河内国内には、真木村が存在したことは確実であるが、古市郡内に真木村(槙郷)に存在したことは、史料学上証明することはできず、古市郡とするは、誤記か、或いはある事情のため僭称したと解釈することもできるとしている。ある事情とは、史料学的に存在する古市郡外の真木村[7]は、太平記にも登場する中世の著名なスラム街であるため、これを嫌って出自を僭称したのではないかと推察している。
  • 大和国と河内国の国境地帯となる竜田山・嶽山付近は、古代に砂鉄が産出されて、鍛冶が盛んであったことは遺跡の発掘などによって疑いがない[8]。古代・中世に鉄鉱石・砂鉄が産出された場所を、真木村(郷)・槙村(郷)などと呼んでいた事例が全国各地にある。しかも、嶽山には中世まで、中條神社と同じ祭神が祭られていたとする有力な伝説[9]があることなどを根拠に、竜田山・嶽山付近のいずれかの場所にマキという地名が中世まで残っていたのではないかと指摘している。従って古市郡の真木氏発祥説は、妥当性があるとしている。

真木氏が、四国から三河に渡来した三河国宝飯郡牧野氏(田口姓牧野氏)、及びこれの末裔となる近世大名牧野氏などの庶流・一族でなければ、古代から製鉄鍛冶技術を持った河内国のたたら族の末裔の一つであると考えられるとしている。

中條神社社記の史料学的価値

中條神社の前身となる加知天神は、天正3年(1575年)長篠合戦の兵火などで2回古文書を焼失しており、その後、社記には書き足しが見られることから、史料学的には2級のものである要出典

三河国宝飯郡の牧氏・槙氏が、真木定観の末裔であるとの記述については、神社の社記の前後関係から推測して、後世の書き足しである可能性は排除できない。

三河真木氏の末裔

宝飯郡鍛冶村の支配者であった真木氏の直系子孫の多くは、譜代大名となった牧野氏によって、家臣団化されて、越後長岡藩(藩主牧野氏)・客人分連綿に差し置かれ中老(年寄)・番頭・奉行・者頭(物頭)などとなった系、信濃国小諸藩(藩主牧野氏)家老などとなった系、及び越後国三根山藩の重臣となった系がある。

宝飯郡鍛冶村(現、豊川市)の鍛冶屋は、江戸時代初期に、その繁栄が豊川から豊橋に奪われると、豊橋に集団で移転した。

また現代でも、愛知県豊川市豊橋市、宝飯郡には、真木姓が散見され、特に豊橋市の真木姓を称する者には、先祖が鍛冶屋職人であった者が多いと云う指摘がある。

田原藩主・三宅氏家臣の真木氏

三河国田原藩主・三宅氏(三河国渥美郡田原発祥)家臣に真木氏があり、名の通字を「定」としているほか、襲名にも「重」の字を使用しているため、上記の宝飯郡牛久保・真木氏と同族であるとも推定できるが、史料学的には不明である。

渡辺崋山派であった真木重兵衛定前は、弘化元年(1844年)に藩主・三宅康直を継嗣問題で諌めるため、参勤交代途中の金谷宿で切腹し、これを受け入れられた。

参考文献など

  • 小諸藩 (加藤誠一著) 
  • 牧野家臣団 (加藤誠一著)   
  • 愛知県中條神社社記
  • 愛知県長谷寺の伝説(過去帳・同寺発行のパンフレット)

脚注

  1. 古市郡は「郡」であっても、範囲が狭い。羽曳野市の大半と富田林市郊外の一部など限られた範囲でしかない。
  2. しかし、マキ氏については史料が少なく、総花主義的な可能性の指摘にはなるが、実はマキ氏には鍛冶と縁の深い一族と、四国から牧野氏(あるいは細川氏)に随従した一族のまったく別個のニ系統が存在したが、後世に段々と紛れて、わからなくなってしまったという可能性については完全には排除できない。この場合、牛久保城の内堀の中に屋敷を持った真木氏(牛久保城古図)は、橘姓・真木氏であって牧野氏の一門衆か、それに近い存在である一方で、鍛冶村古屋敷の真木越中守定善・同善兵衛(二葉松)等は、源姓・真木氏であって中條神社の神官・牧氏と同じく刀鍛冶と縁が深く、真木定観の末裔を称していた。そして源姓・真木氏(牧氏・槙氏)から橘姓・真木氏に、真木三郎左衛門重勝が養子入りをして槙氏に改姓したため、ますます混沌として、紛れてわからなくなってしまったという見方もできるが、あくまで可能性の一つであって、推定の域を出るものではない。
  3. 牛久保牧野氏や、岩瀬氏が浄土宗の寺院である光輝庵を主な葬地とする一方、真木(槙)氏は、寺院ではなく一本松にあった野火の火葬場の近くに一族の共同墓地を持っていた。真木氏葬地は改葬されて愛知県営牛久保住宅となっていたが、これも老朽化して平成4年~5年(1992年1993年)に、全面的に中層住宅に建て替えられて、過去の面影を全く残していない
  4. 牛久保城の内堀の中に屋敷を持っていた真木又次郎と、鍛冶村古屋敷の真木越中守の葬地は、同じ場所にあった。屋敷の位置は離れていても、葬地が同じで別流とみるのは無理であり、真木又次郎と、真木越中守は、近縁者とするのが自然な解釈であるとの見解がある。これに対して神官や刀鍛冶のマキ氏と、牧野氏と縁が深い真木氏は、完全な別流ではないかという見解もある。この見解であれば真木又次郎と、真木越中守が同じ葬地であっても矛盾はない。しかしそうであるとするならば、中條神社周辺と鍛冶村の支配者であった牧野氏と縁が深い真木氏と、神官や刀鍛冶のマキ氏とは、偶然に姓が同じか、似ていただけに過ぎず、通婚関係があったかもしれないという程度になる。このように郷土史家の見解はまちまちであって、定説をみないのである。
  5. また、中世の時期から続いていた鍛冶工房(かじこうぼう)も盛んで、街道にはたくさんの工房が存在したようで、特にまちの北東部は「鍛冶町」と呼ばれています。(羽曳野市役所ホームページより引用)
  6. 真木(牧・槙)という姓及び地名が、鍛冶・砂鉄と縁が深い例として、河内国古市郡発祥のマキ氏、備前国槙ヶ峠発祥のマキ氏 出雲国槇木村発祥のマキ氏、奥羽国槙峯発祥のマキ氏・マキノ氏、磐城国石川郡槙発祥のマキ氏があるほか、特に尼子十旗の真木氏・馬来氏は著名。但し加藤説は、姓については、尼子十旗の真木氏・馬来氏と、大阪府富田林市・羽曳野市の真木氏のみを事例にあげているに留まる。
  7. 大阪府枚方市・すなわち北河内にあり、大阪府・京都府・奈良県の境近く
  8. 嶽山遺跡発掘調査報告書(富田林市龍泉所在)獄山遺跡発掘調査団編。但し龍泉地区は古市郡から僅かに外れる。
  9. 柏原市大字青谷の金山彦神社・金山媛神社の伝説