札幌華僑総会
札幌華僑総会(さっぽろかきょうそうかい)は、札幌にある華僑の互助・支援団体。歴史的に札幌には戦前からの居住者や日本統治下の台湾からの移住者に比して、戦時中に大陸から来日した留学生や日本に連行され使役された華人労務者で、戦後も日本に残留した人が多いという特徴があり、1953年の設立当初から、互助組織としての活動とともに、元華人労務者の生活支援や、日本で死没した華人労務者の遺骨の収集・送還運動にも取り組んだ。
目次
札幌在住の華人
北大留学生
北海道大学の前身にあたる札幌農学校、東北帝国大学農科大学、旧制北海道帝国大学には、1876年-1950年の総数で中国から386人、台湾から10人の留学生が入学・在学し、1935-1936年がその間の入学・在学者数のピークだった。1937年に日中戦争が勃発した後、中華民国教育部の引揚命令により北大に在学中だった中華民国の留学生は36人中34人が帰国したが、その後、日本軍占領地域の地方政権から派遣された留学生が入学し、太平洋戦争末期の集団疎開などにより学業を中断して終戦に至った。終戦後、中国からの新規の留学生は途絶したが、中国で国共内戦が勃発したため日本に残留していた留学生は帰国を見合わせ復学した[1]。
強制連行者
『外務省報告書』によると、1944年から翌1945年にかけて中国から日本に連行され使役されていた華人労務者は38,935人だったが、北海道にはこのうち延べ20,430人、実数で全国の約42%にあたる16,282人が配置され、うち死亡者数は3,047人だった。1945年年末に生存者13,000余名は函館に集められ、連絡船で本州に送られた後、連合軍によって主に佐世保から天津市の塘沽に送還された。[2]
このとき北海道には何らかの理由で10数名が残留し、また本州から北海道へ移住した強制連行者もいた。席占明の手記によると、北海道に連行され残留した人が10人、本州に連行され札幌に移住した人が6人いた。[3]
終戦直後の札幌在住者数
終戦当時、札幌には、老華僑2世帯、留学生約20人、戦後解放された強制連行者7世帯の中国系人が在住していた[4]。
中国留日学生北海道同学会
終戦後、1946年春にかけて札幌に戻った北海道大学の中国人留学生(大陸出身者17-18人)は北10条西1丁目の下宿屋を借り上げて留学生寮「中華学寮」とし、同年、中国留日学生北海道同学会を組織した[5]。会を組織した目的は、それまで大東亜省から支給されていた学費補助金がなくなるため、連合国民として食糧の特別配給を受けられるように北海道庁や札幌市役所と交渉する体制を整えることだった[6]。
札幌地区華僑自治会
北海道の華僑全体の組織としては、1946年に函館で全日本華僑聯合総会北海道分会(1951年に留日北海道華僑総会に改称)が設立され、北海道各地の華僑に砂糖・食用油・衣料などの特配物資を分配していたが、1949年頃、札幌在住の華僑は、北海道財務局から特配物資を直接受領できるようにするため、北海道分会を脱会し、札幌地区華僑自治会を設立した。[7]
1949年10月1日に中華人民共和国が成立した後、同月10日に、札幌市内在住の留学生と華僑の家族らが北海道同学会の中華学寮に集まり、双十節の祝賀行事を開いた[8]。このとき集まった華僑とその家族の集計から、1949年当時、札幌には少なくとも52人の華人が居住していた[9]。
札幌華僑総会
1953年から、東京華僑総会などの呼びかけと引揚げ3団体と中国政府の交渉により日中間で引揚船が運航されるようになり、これに乗船して中国へ帰国した人もいたが、その後中国での生活事情が苦しいとの情報が伝わった、親日政権からの派遣留学だったため心理的に帰国し難かった、強制連行者でBC級戦犯裁判の証人として日本に留まった、日本人と結婚した、などの理由から、日本に残留する人もいた[10]。1949年当時札幌に在住していた44人のうち、21人が帰国(うち5人は日本に再入国)し、13人が札幌に、5人が日本の他所に残留した(5人は消息不明)[11]。
1953年に中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が結成され、東京華僑総会の副会長だった陳焜旺が札幌を訪れて、札幌地区華僑自治会が会として華人労務者の遺骨の収集・送還事業に参画することになった際に、対外折衝をするために会の名称を変更し、札幌華僑総会が発足した。初代会長は廬社鉄、副会長は陳清祥、事務局は席占明が務めた。[12]
1953年7月15日に札幌市東本願寺札幌別院で北海道中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会により開催された「第1回北海道関係合同慰霊大法要」に出席し、同月18日(16日か)に行われた華人労務者の遺骨を捧げ持っての札幌市内の行進に参加した。北海道からの遺骨送還は1953年8月の第2次送還船から5次にわたって行われ、当時札幌華僑総会の会長だった劉智渠や李学士が捧持代表団の在日華僑総会代表として訪中した。[13]
この頃、華僑総会では、年1回の通常総会のほか、国慶節の祝賀会、夏の海水浴、冬のスキーなどを催し、会員の結婚や葬儀も総会で行った。対外的には、日本の友好団体との交流や、官庁(税務署、警察、入国管理局など)との折衝、中国からの訪日代表団の迎接などを行い、納税申請のための華商組合を設立した。[14]
事務所
- 1972年以前はビルを間借りし、移転を繰り返していた[15]。
- 石飛(2010,pp.83)によると、札幌で劉智渠が経営していた店の2階を拠点にしていた時期があった。
- 1972年に南5条西8丁目の古い旅館を買い取り、華僑総会の事務所・華僑会館とした[16]。
- 1991年に南12条西8丁目の土地を交換により取得し、鉄筋3階建ての華僑会館を新築した[17]。
歴代会長
- 廬社鉄 1953年-1954年在任。広東省出身。戦前から札幌在住だった。[18]
- 劉智渠 1954年-1967年在任[19]。河北省出身。戦時中は秋田県の鹿島組花岡出張所で就労。戦後、本州から北海道へ移住。
- 李学士 1967年-1977年在任。綏遠省出身。蒙疆政府派遣留学生、北大農学部卒。[20]
- 曲学礼 1977年-2001年在任。山西省出身。北大農学部卒。[21]
- 席占明 2002年-2011年在任。山西省出身。蒙疆政府派遣留学生、北大農学部卒。[22]
付録
外部リンク
- 社団法人 北海道札幌華僑総会 2011年1月20日更新 2018年1月23日閲覧
- 社団法人北海道札幌華僑総会 2017年11月30日更新 2018年1月23日閲覧
脚注
- ↑ 曽(2014)p.69
- ↑ 曽(2014)p.82
- ↑ 曽(2014)p.83
- ↑ 曽(2014)p.69 - 席占明の口述・手記による。
- ↑ 曽(2014)p.72
- ↑ 曽(2014)p.72
- ↑ 曽(2014)pp.88-89
- ↑ 曽(2014)pp.68,72
- ↑ 曽(2014)pp.71-72
- ↑ 曽(2014)p.74
- ↑ 曽(2014)p.76
- ↑ 曽(2014)p.89
- ↑ 曽(2014)pp.91-92
- ↑ 曽(2014)pp.89-90
- ↑ 曽(2014)p.90
- ↑ 曽(2014)p.90
- ↑ 曽(2014)p.90
- ↑ 曽(2014)pp.78,89
- ↑ 曽(2014)pp.80,89,90
- ↑ 曽(2014)pp.80,90
- ↑ 曽(2014)pp.81,90
- ↑ 曽(2014)pp.68,79,90
参考文献
- 曽(2014) 曽士才「日本残留中国人 - 札幌華僑社会を築いた人たち」法政大学国際文化学部『異文化』2014年4月、pp.67-99