寺岡謹平
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寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)出身の日本海軍の軍人。最終階級・功級・称号は、海軍中将・功三級・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
経歴
小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1919年12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第2艇隊艇長、海兵教官などを経て、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業した。
「日向」水雷長、軍令部第2班第3課部員、第3戦隊参謀、皇族(高松宮)付武官、横須賀海軍航空隊教官、中華民国海軍大学教官、「蒼龍」艦長、「赤城」艦長などを歴任し、1939年11月、海軍少将に進級。第3連合航空隊司令官、海兵教頭を勤めた。
太平洋戦争期には、その多くを南京政府軍事顧問(支那方面艦隊司令部付)として勤め、1943年11月、海軍中将となった。以後、練習連合航空総隊司令官、第1航空艦隊司令長官、第3航空艦隊司令長官を歴任し、1945年9月、予備役に編入された。