中曽根裁定
中曽根裁定(なかそねさいてい)とは、1987年10月31日に自由民主党総裁の中曽根康弘が竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一大蔵大臣の3人(安竹宮)から竹下幹事長を次期総裁に指名した事を指す。
概要[編集]
事は1986年9月に総裁退任が決まっていた中曽根が、任期直前の7月の衆参同日選挙で自民党を圧勝させたことに始まる。選挙後、金丸信等党内から任期延長の声が高まり、党両院議員総会が全会一致で中曽根総裁の任期を1年延長。ポスト中曽根は竹下幹事長、安倍総務会長の党幹部2人に宮沢大蔵大臣を加えた3人の間で争われることになった。当初は安倍が竹下より有利とされていたが[1]、翌年7月に竹下は田中派の多くの議員を率いて経世会(竹下派)として独立する。党内最大派閥となった竹下派では、田中派時代にロッキード事件の影響で長年総裁候補を出せなかったことへの反動から自派総裁選出の期待が高く、竹下も引き下がれなくなった。これにより、中曽根退任後の総裁選挙実施の機運が高まったが、禅譲によって影響力を残したい中曽根は安倍・竹下連合による選挙の実施を阻止するために様々な情報を出して撹乱し、選挙の実施を阻んだ。安竹宮の3人は話し合いによる後継総裁決定を模索する。(三候補の中では議員票の劣る宮澤だけが話し合いに積極的であり竹下が話し合いを受け入れた際には竹下支持グループからは小沢一郎らが「票数で勝るのになぜ話し合いを受け入れる。」と公選を強硬に主張した。)
結局、話し合いでは決着がつかず、中曽根の思惑通り後継総裁を指名する形になり、消費税の実施[2]と大喪の礼[3]を滞りなく行える人物を考慮して竹下幹事長を指名(一説では、ポスト中曽根争いの際に竹下と安倍が口論になり話し合いの末、竹下総裁-安倍幹事長、ポスト竹下に安倍と竹下に約束させたと言われているが、安倍晋三ら安倍側の関係者は否定している)、中曽根の裁定文の発表は当時自民党幹事長代理であり、後に総裁に就任する宇野宗佑が行った。
指名は極秘裏に進められ且つ様々な煙幕を張っていたために時事通信は安倍総理誕生と大誤報を打った。総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃、ニュースステーションは独自の総裁選シミュレーションで『安倍総務会長が竹下、宮沢両氏を抑え第12代自民党総裁に選出』と予測した。竹下は別の日に同番組に招かれ、笑顔を浮かべて出演している。
リクルート事件の際には、安倍幹事長、渡邉美智雄政調会長の党三役と宮沢大蔵大臣が関与を指摘されて、ポスト竹下から一歩後退した。宮沢は後に経世会の支持を得て総裁に選出されるが、安倍はその機をつかむことなく逝去し、裁定が総裁への道を閉ざした形になった。
また、竹下総理(党総裁)は中曽根同様に裁定で中曽根派から後任として宇野宗佑外務大臣を指名したが、直前まで竹下派会長の金丸信に話をしていなかったために、福田赳夫を後継に動いていた金丸は面目をつぶし、「政界の弥次喜多」と言われていた両者の距離が開いていることを世間に晒す形になった。
脚注[編集]
- ↑ 当時竹下は所属していた田中派内で、派閥の長であった二階堂進のグループとの間に確執があり派閥全体の支持を獲得していなかった。
- ↑ 中曽根は衆参同日選挙の勝利後に「売上税」の導入を打ち出したが、「選挙公約と違う」との反発を受けて撤回した経緯があった。
- ↑ 昭和天皇は86歳の1987年9月に開腹手術を受けており、近い将来の崩御が現実味を帯びていた。