遊佐長教

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遊佐 長教(ゆさ ながのり、延徳3年(1491年) - 天文20年5月5日1551年6月8日))は河内国戦国大名畠山氏の重臣。河内守護代。若江城東大阪市若江南町)城主。父は遊佐河内守順盛。室は十河一存の息女など。子に、三好長慶正室と、遊佐信教などがいる。

評伝

遊佐長教に関して幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。その根拠は父の遊佐河内守順盛が遊佐長教誕生の1491年時点で、若江城主であったことの確認が取れるからであるが、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。誕生後、遊佐長教は父と共に転々とすることになる。その理由は、父が仕えていた畠山政長が、長教の誕生の翌々年に明応の政変の結果、河内国渋川郡正覚寺で自決し、子の畠山尚順が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で畠山基家(畠山義就の子)を誉田城に包囲していた遊佐順盛も慌しく退却することとなる。その後も、父、順盛は紀州の地にあった。この間、遊佐長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀州の父の元にたどり着いたとする史料があるので、それに従う。1497年になって畠山尚順や遊佐順盛は河内を奪還し、遊佐順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかし、それもつかの間、1499年の年末には、細川政元に追われ、元服した場所も定かではない。1504年に再度、若江城に復帰したが、1506年には再度、追われた。その後すぐに細川政元が永正の政変で暗殺されると畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、遊佐順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く1511年まで続くが、この年に船岡山の戦いで長教は父を失い、悲しみの中で家督を継いだ。この時、二十歳過ぎだった。若い遊佐長教は、主君畠山尚順を助けて転戦する。また、その後、尚順の子、畠山稙長を補佐した。しかし、畠山稙長は勇敢ではあったが、父、畠山尚順に比較すると見劣りした。また、近臣を取り立てて、遊佐長教と対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る遊佐長教にとって盛り立てていくには困難が伴った。そのため、畠山稙長と対立し、追放したこともあったが、後に和解し、再度、畠山稙長を守護として迎え入れた。それに反対した有力者の木沢長政と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を河内国高安郡太平寺で撃破(太平寺の戦い)し、木沢長政を討ち取った。しかし、その後、畠山稙長が病死し、その弟の畠山政国を擁立した。この時、畠山稙長は能登国守護の畠山義総の子、畠山義続に家督を譲ろうとするなど混乱もあったが、遊佐長教は畠山義続では、非才であり、国人や家臣団および近親の一族等の支持も取り付けることが困難であることを説いて断念させたという。その後は、畠山政国を盛り立て、畠山氏の復権を図り、細川晴元政権の弱体化のために、細川高国の遺児である細川氏綱を唆して、故細川高国の旧臣などを煽動して反細川晴元の気運を高めた。しかし、天は遊佐長教に味方しなかった。英雄、三好長慶の台頭である。宿敵、細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ、同盟を結ぶが、婿が、遊佐長教の宿願を打ち砕くこととなった。その後は、遊佐長教は、三好政権の一翼として活動することとなったが、それもつかの間、若江城内で暗殺されてしまうのである。

年表

  • 1491年延徳3年)、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛。
  • 1493年明応2年)閏4月、畠山政長が明応の政変の結果、自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父、遊佐順盛もこれに従う。遊佐長教も従ったとされる。
  • 1493年(明応2年)10月、畠山基家(畠山義就の子)が紀州に侵入。畠山尚順に味方する根来寺衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。
  • 1496年(明応5年)10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家と和泉国で戦う。
  • 1497年(明応6年)10月1日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。
  • 1497年(明応6年)10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。
  • 1497年(明応6年)11月14日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。
  • 1498年(明応7年)8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家の子の畠山義英を木津に撃破。
  • 1499年(明応8年)1月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を河内十七箇所に撃破し、基家を自害させる。
  • 1499年(明応8年)9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が足利義稙の求めに応じて、細川政元の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。
  • 1499年(明応8年)10月、細川政元の策略により河内国で土一揆が起こる。
  • 1499年(明応8年)11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義稙が六角高頼に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。
  • 1499年(明応8年)12月18日、細川政元の部将、赤沢朝経が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。
  • 1499年(明応8年)12月20日、摂津国天王寺において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および高屋城へ。その後、紀州へ。
  • 1500年(明応9年)9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の和泉半国守護の細川元有岸和田城を攻略。
  • 1500年(明応9年)9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の畠山義英(畠山基家の子)の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・薬師寺国経らに敗れる。
  • 1501年(明応10年)2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の興福寺の抗議活動が起こる。
  • 1501年(文亀元年)6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。
  • 1502年(文亀2年)ころ、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、偏諱を受けて「長教」と名乗った。
  • 1504年永正元年)12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が誉田城に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。
  • 1505年(永正2年)2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより大和国人衆が春日大社で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。
  • 1505年(永正2年)11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、本願寺実如に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。
  • 1506年(永正3年)1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。
  • 1507年(永正4年)6月23日、細川政元が暗殺される(永正の政変)。
  • 1507年(永正4年)8月、足利義稙・細川高国方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反細川澄之の挙兵。
  • 1507年(永正4年)10月下旬、赤沢長経が大和に侵入。筒井順賢らが河内に逃亡。
  • 1507年(永正4年)11月中旬、筒井順賢が大和国高田城奈良県大和高田市)に入城。
  • 1507年(永正4年)12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。
  • 1507年(永正4年)12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。
  • 1508年(永正5年)4月27日、足利義稙が上洛すべく、周防国長門国などの守護大内義興らに擁されてに到着、畠山尚順が堺に出迎える。
  • 1508年(永正5年)6月14日、畠山尚順が兵1万を率いて上洛し、細川高国とともに将軍足利義稙を警護。
  • 1508年(永正5年)7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。
  • 1511年(永正8年)8月24日、船岡山の戦いで、父、遊佐河内守順盛が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。
  • 1513年(永正10年)8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。
  • 1520年(永正17年)3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城(羽曳野市古市)が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。
  • 1520年(永正17年)5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。
  • 1521年(永正18年)3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。
  • 1521年(大永元年)10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。
  • 1522年(大永2年)7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。
  • 1524年(大永4年)12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を仁王山河内長野市日野町)で打ち破る。
  • 1528年享禄元年)11月11日、守護畠山稙長が柳本賢治畠山義宣(畠山義英の子)の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義宣が入城。畠山稙長は金胎寺城に退却。
  • 1534年天文3年)、遊佐長教、木沢長政らが畠山長経を守護に擁立し、畠山稙長を追放。
  • 1542年(天文11年)初頭、遊佐長教が畠山稙長を擁立し、畠山稙長が河内守護に復帰。
  • 1542年(天文11年)3月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。
  • 1542年(天文11年)3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、畠山稙長は撤退、三好長慶、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に。
  • 1545年(天文14年)5月15日、主君、畠山稙長が薨去。
  • 1546年(天文15年)8月16日、足利義晴と遊佐長教が連絡をとり、細川晴元にかえて細川氏綱を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。
  • 1546年(天文15年)8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の会合衆が三好長慶を阿波国に帰国させることで和睦が成立する。
  • 1546年(天文15年)10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した三好義賢の軍勢を撃退する。
  • 1548年(天文17年)3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する畠山政国を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。
  • 1548年(天文17年)4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。
  • 1548年(天文17年)4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。
  • 1548年(天文17年)10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の三好政長の子の三好政勝の軍勢2,000余が籠もる榎並城大阪市城東区野江附近)に攻め、陥落させる。(榎並城攻防戦
  • 1548年(天文18年)6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。
  • 1549年(天文18年)6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である近江守護六角定頼が7,000余の軍勢を子息の六角義賢に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった中島江口(大阪市東淀川区東中島附近・JR新大阪駅近隣)を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。細川晴元は近江国大津に逃亡し、細川晴元政権は崩壊した(江口の戦い)。
  • 1551年(天文20年)5月5日、若江城内に於いて帰依していた時宗珠阿弥に暗殺される。