藤原浜成
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藤原 浜成(ふじわら の はまなり、神亀元年(724年) - 延暦9年2月18日(790年3月12日))は奈良時代の公家・歌人。藤原不比等の孫。藤原麻呂の子。娘は聖武天皇の外孫・氷上川継に嫁ぐ。母は稲葉国造気豆女。
京家の中心的人物であったが、年齢的に一世代近く年上であった他の3家(北家・南家・式家)の二世世代に比べてその出世は常に一歩後れをとらざるをえなかった。刑部卿・大蔵卿をへて、従三位参議にまでのぼり、桓武天皇の即位直後の781年(天応元年)4月大宰帥となって下向した。しかし6月になると、歴任した職で善政を聞いたことがないとの理由で、大宰員外帥に降格された。そして従者も10人から3人に、俸禄も3分の1に減らされ、職務の執行も停止を命じられ、大弐の佐伯今毛人が代行した。これは即位した桓武天皇が反対する勢力への見せしめとともに、かつて桓武天皇の母が卑しい身分であると立太子に反対したことに対する報復であった可能性が高い。782年(延暦元年)閏正月、娘の法壱の夫である氷上川継が事件を起こし連座、参議・侍従を解任された。その後、許されることもなく、790(延暦9年)に大宰府で没した。
772年(宝亀2年)従四位上参議のとき、日本最初の歌学書『歌経標式』を著し、光仁天皇に献上している。
参考文献[編集]
- 伊藤善允「天応元年六月の政変」(『政治経済史学』74号、1969年)
- 山口博「藤原浜成論(上・下)」(『古代文化』27巻12号・28巻1号、1975・1976年)
- 佐藤信「藤原浜成とその時代」(『歌経標式 - 注釈と研究 -』、桜楓社、1993年)
- 木本好信「氷上川継事件と藤原浜成」(『文化情報学科研究報告』1、2006年)