平維衡
平 維衡(たいら の これひら、生没年不詳)は平安時代の武将。平貞盛の四男。子に正度、正済、正輔がある。官位は、従四位上、下野守、伊勢守、上野介、常陸介。伊勢国に地盤を築き伊勢平氏の祖となった。
生涯
長徳4年(998年)、維衡は遥任の国司として下野守在任中であったが、伊勢国神郡において同族の平致頼(維衡の又従兄弟)と合戦を繰り広げた為、後に両者ともに朝廷に召し出され尋問を受け、維衡は過状(詫び状)を提出し淡路国へ移郷となった。
その後、間もなく召還され、寛弘3年(1006年)1月28日の除目で右大臣藤原顕光が伊勢守に推挙するが、「同族である致頼と伊勢国における覇権を巡り、数度に渡って抗争を展開していた[1]」ことを理由に左大臣藤原道長が強硬に反対する。このため担当の係も任官手続きを行わなかったが、何らかの手違いで維衡の名が書き入れられた状態で清書、奏上されてしまった。そのまま天皇の裁可が下ったため訂正することもできず、道長も承認せざるを得なかった。なお、このような経緯があったためか、維衡はわずか二ヶ月で伊勢守の任を解かれている。
その後、長和年間から治安年間(1012年‐1023年)にかけて上野介、常陸介を歴任している。没年は不明であるが、『尊卑分脈』には85歳で卒去したと記されている。
後世の説話集『十訓抄』には優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼と並んで挙げられている。この四人がもし、互いに相争うのならば、必ず命を失うはずだと書かれている。
なお、伊勢国における争いはそれぞれの子息(維衡の子正輔と致頼の子致経)の代にまで引き継がれるが、致経が比叡山横川で出家し、治安3年(1023年)に亡くなるに及んで、維衡一派の覇権が確立し、伊勢平氏として発展する。のち、この系統から平清盛が出て最盛期を築くことになる。
脚注
- ↑ 有事の際に廷臣として務めることができるようにするため、当時、五位以上の者は許可なく畿外に住むことはできなかった。