元禄赤穂事件

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元禄赤穂事件げんろくあこうじけん)とは江戸時代中期の元禄15年12月14日1703年1月30日)に発生した主君仇討ち事件である。江戸城中で赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩高家旗本吉良上野介義央に対して遺恨有りとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして切腹処分となり、その後、浅野の遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47士が吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命により切腹したという一連の事件を指す。一般には忠臣蔵の名称で特に知られる。

かつては曾我兄弟の仇討ち伊賀越えの仇討ちと並んで“日本三大仇討ち”と称されていたが、最近はこの事件の知名度だけが群を抜いていることもあって、その語はあまり使用されなくなった。また「忠臣蔵」の名称は本来この事件を基に脚色した物語ものの総称をいう。

松之大廊下の刃傷[編集]

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江戸城本丸跡(東京)

元禄14年2月4日1701年3月3日)、江戸下向が予定されていた東山天皇勅使柳原資廉(前・権大納言)・高野保春(前・権中納言)ならびに霊元上皇院使清閑寺熈定(前・権大納言)を接待するために幕府は勅使饗応役として播磨赤穂藩主・浅野内匠頭、院使饗応役として伊予吉田藩主・伊達左京亮をそれぞれ任じた。両名の指南役は高家の筆頭格である高家肝煎吉良上野介義央であった。

勅使・院使は3月11日(同年4月18日)に江戸に到着し、幕府の伝奏屋敷に入った。浅野内匠頭もこの前日には伝奏屋敷入りしており、以降数日間にわたり吉良の指南を受けながら勅使の饗応にあたるはずであった。勅使たちは翌12日(4月19日)には江戸城へ登城の上、将軍徳川綱吉勅宣院宣を伝奏。また13日20日)には猿楽を観賞している。

そして14日21日)、この日は勅使・院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。しかし同日巳の刻(午前10時)、江戸城本丸御殿松之大廊下において吉良上野介と旗本梶川与惣兵衛頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して脇差でもって殿中刃傷に及んだ。吉良上野介は額と背中を斬られるが、側にいた旗本・梶川与惣兵衛がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえ、また居合わせた品川豊前守伊氏畠山下総守義寧ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだため、刃傷は失敗に終わった。梶川がのちに記したところによると浅野はこの際に「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びとともに斬りかかったという。

捕らえられた浅野は幕府目付多門伝八郎重共近藤平八郎重興の取調べを受けたが、多門の記すところによれば浅野内匠頭は「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と答えた。一方、吉良上野介は外科の第一人者・栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせ、軽傷ですんだ。その後目付の大久保権左衛門忠鎮久留十左衛門正清らから尋問を受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と主張した。いずれにしても尊皇心厚き将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、浅野内匠頭を即日に切腹赤穂浅野家の断絶を命じた。対して吉良上野介は殿中をはばかり、手向かいしなかったことは殊勝であるとして何の咎めもなかった。

大名が即日切腹というのはきわめて異例なことであった。目付多門伝八郎も遺恨の内容などについてもっと慎重な取調べが必要だと訴えたが、側用人・柳沢出羽守保明に退けられたという。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、長矩の処分を断行することで勅使・院使たちに対して自らの天皇への忠誠心をアピールして、母・桂昌院最大の念願である従一位叙任がお流れにならないようにしたかったためのようである。

一方、浅野内匠頭は芝愛宕下の田村右京太夫建顕陸奥国一関藩主)屋敷にお預けとなり、庄田下総守安利大目付)、多門伝八郎(目付)・大久保権左衛門(目付)らの立会いの下、酉の刻(午後5時頃)に屋敷の庭先にて切腹させられた。多門の証言によれば浅野内匠頭の近習・片岡源五右衛門高房が最期に一目、主君浅野内匠頭に目通りできたという。

刃傷事件の原因[編集]

はたして本当に浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んだかどうかは分からないが、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』にもその後、内匠頭が「遺恨あり」と証言していることが記されている、とされている。

しかしながら奇怪なことにいずれの書物も内匠頭が遺恨を主張していることについては触れていながら、遺恨の細かい内容については記していない。詳しく聞かなかったとは考えられないので幕府を憚って削除されたのかもしれない。

ともかく詳しい内容を資料から知りえない以上、推理するしかないのが現状である。

忠臣蔵』などの芝居に由来する通説では、院使饗応役の伊達左京亮が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良上野介へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかったために賄賂好きな吉良上野介の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野内匠頭に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。しかし内匠頭は17年前の天和3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。浅野内匠頭やその家臣団が役目に不慣れであるはずもない。

また進物・賄賂についても現代社会と当時の社会ではだいぶ感覚が異なっていたことも考慮せねばならない。何もかも公費予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。広大な領地と莫大な石高を持つ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地・石高しか持っていない(吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない)。したがって高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料・必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。ゆえに「賄賂説」は可能性が低い。

浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出するの製法と販路の問題で対立があったという説が有力に主張されているが、これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆の中で唱えていたものである。しかし実際には吉良上野の領地に塩田は当時無かったといわれている。また、当時の塩の製法はほとんど地形と気象条件に依存し、技術的な要素はさほどなかった。ゆえに、この「塩田説」も可能性が低い。

またもう一つ有力に主張されているのが饗応費説である。勅使への饗応費をできるだけ節約しようとする浅野内匠頭と勅使への饗応費はもっと沢山必要だと主張する吉良上野介が対立していたという説である。

ほかは両者の性格に原因を求める説がある。浅野内匠頭については痞(つかえ)という精神的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかと言われている。史実だけを見ると浅野内匠頭は、47士の1人・千馬三郎兵衛を閉門処分にしており、重臣・近藤正憲も組頭から解任している。また47士の1人・不破数右衛門も藩から追放されている。このうち千馬は直言癖があって、不破は人を斬って、それぞれ内匠頭を激怒させたといわれている。内匠頭が短気であった可能性は高い。

一方吉良上野介は亀井隠岐守茲親を苛めたという逸話が津和野に残っているため、常習的な「苛めっこ」ではないかと言われる。大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説にたっており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をしており、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。また史実を見るなら吉良上野介は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。どこか図々しいところがあったことは間違いなさそうである。

こうして浅野の短気と吉良の図々しさが交わって起きた悲劇ではないかという説である。

また変わったものでは陰謀史観的であるので学術的にはほとんど取り上げられていないものの、本来は吉良上野介の側を陥れるはずだった陰謀に浅野内匠頭が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説も存在する。

無論、いずれの説も単なる空想でしかない。刃傷事件の真相は今もって謎に包まれている。しかし刃傷事件の原因がはっきり分からなかったからこそ、この事件はいかようにも解釈できるわけであり、これが忠臣蔵作品の人気が衰えない秘密の一つではなかろうか。

だが実際は本職の精神科医の著作によれば信用のおける史料の記述から判断する限り、浅野は統合失調症精神分裂病)の可能性が高いと考えられている。最近では信頼のおける史料では浅野が「この間の遺恨覚えたか」などと叫んだ事実はなく、ただわめきながらいきなり斬り付けたとしか記されていない、とされる。そもそも刃傷の理由云々以前に、脇差で相手を殺傷しようとする場合、斬り付けるのではなく突き刺すのが常識である(「初手は突き二度目はなどか斬ら(吉良)ざらむ石見がえぐる穴を見ながら」)。上記著作によると、浅野の殿中刃傷事件は、理由など無い、無論吉良への遺恨など全く有り得ない、精神異常による突発的衝動的な犯行であった可能性もあるとされる。

幕府の処分決定[編集]

幕府は翌15日22日)、浅野内匠頭の弟で養子に入っていた浅野大学長広閉門処分とした。また浅野内匠頭の従兄弟にあたる美濃国大垣藩戸田采女正氏定大垣新田藩戸田弾正忠氏武蔵国岡部藩安部丹波守信峯・旗本安部小十郎信方浅野美濃守長恒浅野左兵衛長武らを遠慮(江戸城登城禁止処分)とした。

また播磨国竜野藩脇坂淡路守安照備中国足守藩木下肥後守公定の両名には赤穂城収城使を命じ、また収城目付に旗本荒木十郎左衛門政羽榊原采女政殊を任じた(当初は日下部三十郎博貞の予定だったが、日下部は浅野家の遠縁にあたるので榊原に変更された)。さらに18日25日)にはしばらく天領となる赤穂の統治のために幕府代官石原新左衛門正氏岡田庄大夫俊陳の赤穂派遣が決定した。

赤穂藩に報が伝わる[編集]

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現代の赤穂市の位置。赤穂藩域は他に相生市上郡町に及んでいた

一方赤穂藩では電話もない時代であるから、そんなことになっているとは露も知らず、いつもと変わらぬ平和の日々にあった。この平和が壊されたのは19日26日)卯の刻(午前6時頃)であった。江戸からの第一の急使早水藤左衛門満尭萱野三平重実赤穂城内にある筆頭家老大石内蔵助良雄の屋敷に到着し、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだという浅野大学からの書状がもたらしたのである。内蔵助はすぐさま赤穂にいる200名ほどの藩士全員に登城命令を出した。

家中がそろったところで急報を城代家老大野九郎兵衛知房が藩士達に読んで聞かせた。しかし大学の書状には吉良の存命について何も書かれていなかったため、どうやら藩士たちは内匠頭が吉良を討ち取ったと思い込んでいたようだ。内蔵助は、これだけでは詳細が何も分からないということで午後1時頃、萩原文左衛門(100石)と荒井安右衛門(15石5人扶持)を江戸へ派遣。酉の刻(午後7時頃)、足軽飛脚による第二の急使が赤穂に到着。しかしやはり刃傷事件の発生以外は何も書いていなかった。さらに戌の刻(午後11時頃)、原惣右衛門元辰大石瀬左衛門信清による第三の急使が到着した。ここでようやく内匠頭切腹の情報が出てきたが、吉良の生死・赤穂藩の改易については相変わらず何も書かれていなかった。しかし殿中刃傷を起こした家がどうなるかは大体予想がつくので、大石は藩札の処理を札座奉行岡島八十右衛門常樹に命じ、早くも翌20日27日)には領内数箇所に藩札交換所が設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。

22日29日)には町飛脚の第四報が到着し、浅野大学長広お預かりの情報が伝えられた。続く25日5月2日)には町飛脚の第五報が到着、これには江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。しかしいずれの報にも吉良の生死の情報は無く、いよいよ吉良の死を疑いだした内蔵助は藩士の田中権右衛門(藩大目付150石)を吉良の生死を確かめるべく江戸へ派遣した。またこの日広島藩士太田七郎右衛門正友が赤穂に到着しており、翌26日3日)にも大石内蔵助の叔父にあたる広島藩小山孫六良速が赤穂入りしてくる。いずれも穏便に開城をという広島藩の圧力であった。

なお、当時の赤穂藩は厳しい経済統制、重い年貢などで領民は長矩を憎悪することはなはだしかった。彼が切腹したことが伝わると、領民たちが赤飯を炊いて祝ったと伝えられている。

開城か篭城か[編集]

大石はいよいよ開城か篭城か決めねばならなくなった。家中の意見を統一するために27日4日)から3日間にわたって城内広間において大会議を開催した。この会議では篭城を主張する抗戦派と、開城して御家再興を嘆願すべきとする恭順派に意見が分かれて対立した。抗戦派の中心は原惣右衛門岡島八十右衛門の兄弟であり、一方恭順派は城代家老・大野九郎兵衛が中心となっていた。この会議中の28日(5日)に第6の急使が到着し、赤穂城の収城目付が荒木政羽榊原政殊、赤穂代官が石原正氏岡田俊陳になった旨が告げられたが、これは篭城抗戦派をより刺激し、開城派大野の孤立が深まっていった。

論争はよほど激化したと見え、大石内蔵助は29日6日)に収城目付荒木政羽榊原政殊に対して「赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、ただ主君一人を思い、赤穂を離れようとはしません。吉良上野介様への仕置きを求めるわけではありませんが、家中が納得できる筋道をお立てください」という嘆願書を提出しようと多川九左衛門月岡治右衛門を江戸に派遣している(ただしこの両名は荒木と榊原に行き違いになり、「目付に直接手渡すように」という内蔵助の命令に背いて江戸家老安井彦右衛門に報告してしまい、安井の報告を受けた大垣藩主・戸田采女正氏定の「穏便に開城するように」という書状を持って帰ってくるだけに終わる)。

一方、親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が押し寄せてくる(28日5日)には大垣藩主・戸田氏定家臣の戸田源五左衛門・植村七郎左衛門、29日(6日)には広島藩主・浅野安芸守綱長家臣太田七郎左衛門正友、4月1日8日)には三次藩主・浅野土佐守長澄家臣の内田孫右衛門、6日13日)には戸田家家臣の戸田権左衛門、杉村十太夫・里見孫太夫、8日15日)には戸田家家臣の大橋伝内、9日16日)には広島浅野家家臣、井上団右衛門・丹羽源兵衛・西川文右衛門、11日18日)には戸田家の高屋利左衛門・村岡勘助、広島浅野家の内藤伝左衛門・梅野金七郎・八木野右衛門・長束平内・野村清右衛門・末田定右衛門、12日19日)には戸田家の正木笹兵衛・荒渡平右衛門、三次浅野家の永沢八郎兵衛・築山新八)。

こうした中で大野と原兄弟の対立はますます激化し、ついに12日(19日)に大野九郎兵衛は赤穂から逃亡して去っていった。

肝心の大石内蔵助自身はどうかというと、内心では開城してお家再興派であったのだが、これを主張すればとても収まりがつかないことはわかりきっていた。そこで最初は篭城を主張して原惣右衛門ら篭城派の支持を獲得して、次いで藩士一同の殉死を主張して、最後には吉良への仇討ちを前提とした開城へと原たちを誘導していくというやり方をとった。

このやり方が功を奏して赤穂家中は開城に意見がまとまったのであった。なお大石内蔵助は切腹に同調した藩士80人~60人(内蔵助へ神文血判を提出した人数は文献によって異なる)から誓紙血判を受けて義盟を結ぶのだが、ドラマなどでは赤穂城でおこなったもののように描かれているが、実際には赤穂城退去後に各自彼らに提出させたものであった。

赤穂城開城[編集]

赤穂城は開城されることとなり、内蔵助らは15日22日)に到着した収城目付・荒木政羽榊原政殊を迎えた。内蔵助はさっそくこの2人と会見し、大野九郎兵衛にかわって組頭・奥野将監定良を家老代理にすることの許可をもらった。17日24日)には代官の石原正氏岡田俊陳も赤穂に到着。18日25日)にはこの4人による赤穂城検分が行なわれたが、この際に内蔵助は3回にわたって浅野内匠頭の弟・浅野大学長広をもっての浅野家再興の取り成しを嘆願した。3回目の嘆願でようやく荒木政羽が浅野家再興を老中に取り次ぐ事を約束する。同日、収城使脇坂淡路守安照率いる4,500余りの竜野藩兵が赤穂に到着。翌[[4月17日 (旧暦)|19日(26日)に内蔵助は赤穂城を無血開城した。城明渡しに際して、内蔵助の対応は実に見事なものであったといわれる。

赤穂城開城後、内蔵助をはじめとする藩士たちは遠林寺に入って、5月21日6月26日)まで藩政残務処理に追われた。またこのあとも内蔵助は腕に出来た腫れ物の療養のためにしばらく赤穂に滞在している。しかしこの間もお家再興運動は積極的におこない、原惣右衛門らを大坂へ派遣して広島藩浅野家の家老・戸島保左衛門と会見させたり、遠林寺の住職・祐海を江戸に遣わして将軍・徳川綱吉やその生母・桂昌院に影響力が大きい隆光・大僧正らに会見させるなどした。また先に浅野家再興の嘆願を取りなして欲しいと依頼した荒木政羽も江戸帰国後に老中若年寄に取り成しを行ってくれた。荒木は6月9日7月14日)に赤穂浅野家分家筋の旗本浅野長恒の屋敷を訪れて、「浅野家再興の見込みあり」の旨を内蔵助に伝えて欲しいと伝言している。

12日17日)、腫れ物がおさまった内蔵助はついに生まれ故郷の赤穂を後にすることとなる。

江戸詰めの藩士の動き[編集]

一方、刃傷後の江戸詰めの赤穂藩士達はどうであったか。

3月14日(4月21日)午前10時の殿中刃傷事件で赤穂浅野家の鉄砲洲上屋敷は大慌てとなったのは言うまでもない。浅野内匠頭の弟・長広は即刻伝奏屋敷から上屋敷に駆けつけたが、浅野内匠頭の正室・阿久里(のちの瑤泉院)から「上野介の生死はどうなのですか?」と問われても答えられないほどに狼狽していたと言われる。午後2時頃、浅野長広は書状を国家老大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門萱野三平を第一の急使として赤穂へ派遣した。また午後5時頃には一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野長広に伝えられた。これを受けて片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎・中村清右衛門・糟谷勘左衛門・建部喜六らが田村邸へ入り、内匠頭の遺体を引き取った。彼らはそのまま泉岳寺へ向かい、同寺で内匠頭の葬儀を執り行ったが、大名のものとは思えぬ淋しいものであった。この後、片岡源五右衛門・礒貝十郎左衛門らは、浅野内匠頭の墓前で髻を切って吉良上野介の首級をあげることを泉下の主君に誓うのである。

またこの日の晩、無法な町人40人から50人程度が浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入する。改易を聞きつけた火事場泥棒である。この連中は堀部安兵衛武庸らが刀を持って追い払ったが、もはや上屋敷は危険な状態なので浅野家親族の大名・戸田采女正氏定(大垣藩主10万石)と浅野安芸守綱長(広島藩主42万石)に警備の兵を依頼。15日(22日)明朝には広島浅野家から士分15人足軽100人、戸田家から足軽100人が送られてきたのでようやく上屋敷は治安を取り戻した。16日23日)中に赤穂藩士全員上屋敷から引き払ったので、17日には同屋敷は戸田氏定から新しい主となった出羽国新庄藩主・戸沢上総介正誠に引き渡された(さらに22日(27日)には小浜藩主・酒井靭負佐忠囿の屋敷となった)。なお内匠頭正室の阿久里が暮らす南部坂下屋敷のほうは、14日(21日)夜に阿久里が実家である三次藩浅野式部少輔長澄に引き取られ、18(25日)日には藤井又左衛門・富森助右衛門らが同屋敷を人吉藩相良遠江守長在に引き渡した。

その後、江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門藤井又左衛門など真っ先に赤穂藩から逃亡した輩を除いて、多くが吉良上野介を主君に代わって討つべしと主張するようになった。特に剣豪として江戸で名を馳せていた堀部安兵衛高田又兵衛の子孫であり槍の達人の高田郡兵衛、堀部の剣の同門である奥田孫太夫など腕自慢の藩士たちが強硬に吉良上野介の首級をあげるべきことを主張する。また片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎ら浅野内匠頭の寵愛を受けた側近達も強硬に仇討ちを主張した。しかしこの両グループはうまくいかなかった。前者は自分の腕前を天下に披露したいという武芸者であり、後者は自分を寵愛してくれていた主君へ恩返しがしたい寵臣であり、それぞれ思惑が微妙に異なったからであろう。結局、片岡らは江戸を飛び出して、27日5月4日)に赤穂へ入り、そこで同志を募ろうとしたが、この頃、赤穂城では大石内蔵助のもと殉死切腹が主流であったため、片岡らの吉良を討つという主張は受け入れられなかった。結局、赤穂も飛び出して江戸へ戻り、以降は独自に吉良上野介の首を狙った。

一方、赤穂城開城直前の4月14日21日)に堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫たちも赤穂へ入った。ただちに内蔵助はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良上野介への仇討ちを主張したが、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ。」と諭された。一応納得して、5月に江戸へ帰っていった。しかし江戸へ帰った後も堀部達は吉良への仇討ち計画をどんどん進め、内蔵助に江戸下向を迫り続ける。こうしたお家再興よりも吉良家への仇討ちを優先する勢力は、江戸詰めの藩士たちに多かったため、彼らを江戸急進派と呼んだ。

こののち大石内蔵助と江戸急進派の軋轢は徐々に深まっていくこととなる。

御家再興運動から円山会議[編集]

赤穂を離れた後の7月、内蔵助は山城国山科に隠棲した。山科は摂関近衛家の家領であり、内蔵助親戚の同志進藤源四郎俊式の一族である進藤刑部大輔長之(近衛家諸大夫)が管理している領地だった。この関係で近衛家に顔が利く進藤源四郎が山科に居を定めるよう内蔵助に勧めたものと見られる。

山科に居を移した直後の内蔵助は、吉良家への仇討ちより浅野家お家再興を優先した。小野寺十内秀和とともに美濃国大垣城へ赴いて戸田氏定に拝謁して浅野家再興を嘆願。また江戸で浅野家再興運動中の遠林寺住職祐海とも書状で連絡を取り合った。

しかし江戸では吉良が本所松坂に屋敷代えとなり、12月12日1702年1月9日)に家督を養子左兵衛義周に譲って隠居していた。吉良上野介が実子の米沢藩主・上杉綱憲の国許に移るという噂もあり、堀部安兵衛ら江戸急進派は一刻も早い仇討ちの実行を主張した。大石内蔵助は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原惣右衛門(300石足軽頭)・潮田又之丞(200石絵図奉行)・中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部安兵衛に論破されて急進派になってしまったため、10月に大石内蔵助が自身で江戸へ下向した(第一次大石東下り)。江戸三田前川忠大夫宅で堀部と会談し、浅野内匠頭の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの際にかつて赤穂藩を追われた不破数右衛門が一党に加えてほしいと参じたため、大石は内匠頭の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前にて不破の浅野家への帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木政羽や内匠頭正室の瑤泉院とも会見している。江戸で一通りやるべきことを終えた大石は、12月には京都へ戻っていった。しかし帰京後から大石内蔵助の伏見撞木町などでの放蕩が激しくなる。

また年末からは脱盟者も出始めた。同志の1人萱野三平は父・萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害。橋本平左衛門遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物高田郡兵衛内田三郎右衛門との養子縁組騒動を機に脱盟。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。内蔵助はこれを好機として元禄15年(1702年)2月の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定。吉田忠左衛門(200石加東郡郡代)と近松勘六(馬廻250石)を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、内蔵助をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派頭目堀部安兵衛が自ら京都へ乗り込んでくる。「もはや大石は不要」として内蔵助を斬り捨てるつもりだったとも言われる。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて内蔵助もお家再興が難しい情勢を知った。また7月18日8月11日)、幕府は浅野大学長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、吉良家への仇討ち以外の道は消え去ったわけである。

28日21日)、内蔵助は堀部安兵衛も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した(円山会議)。その後、堀部安兵衛はこれを伝えるべく江戸へ戻り、また大石内蔵助はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高源五貝賀弥左衛門に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、命が惜しい者に盟約から抜けるチャンスを与えた。すると、奥野将監など高禄だった者や進藤源四郎小山源五左衛門など内蔵助親族だったものが次々と脱盟した。源五たちは誓紙の返還を拒んだ者にのみ仇討ちの真意を伝えた(神文返し)。

10月7日11月25日)、内蔵助は江戸へ出立する。

内蔵助の放蕩[編集]

忠臣蔵では内蔵助は祇園で連日放蕩三昧に興じるが、それは仇討ちの真意を隠し、吉良側を欺くためだったとされる。

実際には内蔵助は赤穂時代から遊び好きで妾を囲い、遊興の浪費が絶えなかった。山科に移ってからも伏見の遊女のもとに通いつめ、島原、大阪新町でも遊んでいる。若い妾まで囲い、妻のりくは家計の窮状を豊岡の実家に訴えている。実家側の強い訴えでりくを離別して幼い子どもたちと豊岡へ帰している。こんな放蕩三昧の内蔵助が、本気で仇討ちを考えているとは人々は思いもしなかったという。

討ち入り[編集]

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泉岳寺本堂(東京都港区)

11月5日12月23日)、内蔵助の一行は江戸に到着。内蔵助は本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸討ち入りの日取りや装束、合言葉などを定めた。12月14日(1703年1月30日)に茶会があることを源五が聞き出し、討ち入りは14日(30日)の夜と決まる。最終的に同志は47名となった。

14日(30日)夜(雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色で、実際は冷え込みが厳しかったがほぼ満月の快晴だったといわれている)、47人の赤穂浪士は江戸市中3ヶ所に集合して、本所吉良屋敷へと向かった。なお、実際に襲撃したのは現在の感覚で言えば翌15日31日)に入っての未明午前4時頃であったが、江戸時代の慣習では翌日の日の出までを1日の区切りとしたため、当時の感覚としては「14日の斬り込み」となる。

寅の刻(午前4時)、表門からは大石内蔵助以下23名が用意の梯子で邸内に侵入して内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入し、裏門からは大石内蔵助の嫡男・主税以下24名が門を叩き壊して侵入。赤穂浪士は、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せた。吉良家にも幾人か勇士がいたが、鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には敵わなかった。当主・吉良左兵衛も薙刀を持って戦うが斬られて重傷を負う。赤穂浪士たちは大声を上げながらあたかも百人以上の大勢が討ち入ったかによそおい、また用意していた鎹(かすがい)を吉良家家臣の住む長屋の戸に打ち付けて閉じてしまった。このため、吉良家家臣の多くが外に出られなくなってしまったとされる。

裏門隊が寝所に至るが吉良上野介の姿はなかった。赤穂浪士は障子を蹴破りながら屋敷中を吉良の行方を追い、1時間あまり、屋敷内をくまなく探すが吉良上野介は見つからなかった。夜も明け始め、上杉家から援軍の到着の心配もあった。全員自決をも覚悟するが内蔵助はなおも諦めず、吉良を探すことを命じる。

卯の刻(午前6時)ごろ、吉田忠左衛門や間十次郎らが台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、早水藤左衛門が矢を射掛けると中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに2人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきた。この2人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったためまず間十次郎が初槍をつけた。これが義央だった。義央は「もはやこれまで」と玉砕覚悟で脇差で斬りかかったが、あっさりと武林唯七に斬り捨てられて絶命した(但し、吉良の最期については最後まで奮戦した後に力尽きて斬られたとする説もある)。合図の笛が鳴らされ、内蔵助たちが駆けつける。死体を見分すると額と背中に浅野内匠頭が松之大廊下の刃傷でつけた傷跡があった。吉良に相違ない。このとき赤穂浪士たちが男泣きする声を隣家・土屋主税邸が聞いている。

一番槍である十次郎が吉良の首をはね、その首は潮田又之丞の持つ槍の先に掲げられた。邸内の火の始末をしたあと吉良邸を出て、辰の刻(午前8時)浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に着き、墓前に吉良上野の首級を供え、仇討ちを報告した(この際に足軽・寺坂吉右衛門が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた)。

山鹿流陣太鼓と装束[編集]

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。

雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客・清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが映画やテレビドラマ、演劇の定番である。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す(破っている)時の音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになった(先行作でも使用が確認されている[1])。実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。

吉良家臣の奮戦[編集]

吉良家の剣客と言えば小林平八郎清水一学が有名である。吉良上野介の身代わりとなって奮戦する小林平八郎。泉水にかけられた橋の上で二刀を構えた清水一学が赤穂浪士を大いに苦しめ、赤穂浪士第一の剣客堀部安兵衛と大立ち回りを演じる場面が忠臣蔵ものではよく描かれている。しかし上杉家家臣が編纂した「大河内文書」によると、小林平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士につかまり、「上野介はどこか?」「身分が低い家臣なので知りません」「身分の低い家臣がなぜ絹の寝巻きなど着ている?」という問答の末に首をはねられたとされている。また清水一学の方も台所で数合斬りあって討たれたとされており、特に活躍したとはされていない。

大河内文書が最も目覚しい働きがあったとしている家臣は新貝弥七郎山吉新八郎である。新貝は玄関口で奮戦して討死し、山吉はより奮戦して近松勘六を斬り捨てて庭の池に叩き落したという。山吉は重傷を負ったものの、一命をとりとめ、吉良家断絶後も吉良義周にしたがって配流先の信濃国諏訪藩へお供した。彼らはいずれも上杉家から吉良義周にしたがって吉良家へ移ってきた元上杉家家臣である。

当時18歳の吉良家当主の吉良左兵衛義周薙刀を持って、赤穂浪士の剣客のひとりである武林唯七(一説に堀部安兵衛)と果敢に渡り合ったが、斬られて目に血が入り、気を失ったという。事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている。

吉良家は死者16人(小林平八郎央通清水一学義久鳥居利右衛門正次新貝弥七郎安村須藤与一右衛門斎藤清右衛門左右田源八郎大須賀次郎右衛門小境源次郎鈴木元右衛門笠原七次郎榊原平右衛門鈴木松竹牧野春斎、ほか足軽2名)、負傷者23人であった。対して赤穂浪士は数人の負傷だけだった。

また、討ち入りの時に生き残ってしまったために「途中で逃げ出した」とする悪評を立てられた吉良家家老の左右田孫兵衛も討ち入り後も配流された吉良義周のために尽くし、その死後は生涯他家への仕官を断った事から、吉良家への忠節を尽くした家臣としてその汚名を雪ぐことになった。

徒党を組み、不意打ちした集団テロとも言える赤穂浪士たちに対し、不利な形勢を承知で、主君を守るべく奮戦した吉良家の家臣たち(武士ではないのに火鉢を投げつけるなど抵抗した茶坊主も含む)こそ真の忠臣ではないかとの見方もある(当時、徒党を組むことは禁止されていたが、赤穂浪士の討ち入りに関して評定所は「本懐を遂げる為にはやむを得なかった」として罪に問わなかったと言う)。

上杉家と吉良家[編集]

米沢藩主・上杉綱憲は吉良上野介の実子である。赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲がいきり立って父の援軍に出馬しようとするところを家老千坂兵部(または色部又四郎)が強く諫言しておしとどめる場面が忠臣蔵の物語では有名である。実際には、千坂兵部は元禄13年(1700年)に死去しており、色部又四郎は父親の喪中で出仕しておらず、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧が綱憲を止めた。

綱憲は江戸では赤穂の浪人が多く危険であることから上野介に米沢へ隠居するよう勧めていた。14日(30日)の吉良屋敷での茶会は江戸での別れの茶会であったとされる。

赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良上野介が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。上杉家では行方を追ったが知れなかった(大石内蔵助の上杉の追撃をかわす策が成功した)。映画などでは引き上げの途上で路上で庶民が歓呼を以って義士を迎える場面があるが、これもありえない。

やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑された。

四十六士切腹[編集]

大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付仙石伯耆守のもとに出頭させ口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。幕府は46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川越中守松平隠岐守毛利甲斐守水野監物の4大名家に預けさせた。各大名家は赤穂浪士を義士として手厚く迎えた。

赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士は熱烈に賞賛した。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。また、当初は幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし(夜盗の場合は獄門となる)」と唱えた者もいたとされている。しかし中でも大目付仙石伯耆守久尚・町奉行松前伊豆守嘉広・勘定奉行荻原近江守重秀などの幕閣は、この類を見ない主君仇討ち事件に大いに感激した。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日2月8日)に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免するべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者はサムライとは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げ。」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出するほどであった。

学界でも議論がかわされ、林信篤室鳩巣は義挙として助命を主張し荻生徂徠は天下の法を曲げる事はできずとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張する。

こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾くが、かつての自分の裁断が過ちだったことを認めてしまうことにもなりかねないので、そのときたまたま江戸へ下向中だった皇族公弁法親王に拝謁してそれとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至った。皇族からの恩赦なら将軍家の権威に傷が入る事もないからである。

しかし法親王は言った。「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか?おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与える事も情けとなる。」と。もっともなことだと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることに決意した。

元禄16年2月4日3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。遺骸は主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。

赤穂浪士の遺子のうち15歳以上の男子は流罪となった(出家した者を除く)。宝永3年1月20日1706年3月4日)、吉良左兵衛が配流地で死去。ここに三河吉良家の宗家は絶えた。

宝永6年1月10日1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出され赤穂浪士の遺子たちも放免となった。同年8月、浅野大学は赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられた。正徳3年(1713年)、内蔵助の三男・大三郎広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。

その他[編集]

「不忠臣」のその後[編集]

300人以上の元赤穂藩士のうち九割が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。たとえば小山田庄左衛門の父・小山田一閃は息子が同志片岡源五右衛門から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林杢之助も兄の旗本・松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父・内田三郎右衛門に家を追い出されるなどしている。元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗る他なかったとされる。

但し江戸時代、同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切って意趣返しをしたのは本事例のみで、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったことに対し倫理的な批判が向けられたわけではないことには留意すべきであろう。すなわち、改易、取り潰しを受けた藩の武士が主人の仇を返すことは、当時の規範として確立していた倫理ではなかったと言うことである。

不忠臣と言われた大多数の赤穂藩士にしてみれば、一部の藩士が討ち入りをしたばかりに自分たちが厳しい批判を受けることになったと言えるのではないだろうか。

当時の評価[編集]

  • 事件当時において、この事件がどの程度知られていたかは諸説ある。「事件直後はあまり知られていなかった」とも「事件直後から有名だった」とも言われる。その当時の市井の状況を事細かに記した尾張藩士の日記『鸚鵡籠中記』には、刃傷と浅野内匠頭切腹、赤穂城明け渡し、吉良邸討ち入りの3点のみ(浪士切腹は記述なし)が簡潔に記述されているので、少なくとも名古屋城下までは噂になっていたらしいが、それが美談として評価されたとは考えられない。また「かわら版物語」によると、浪士の姓名が書いてある瓦版が江戸に出回ったという話は間違いないようだ。「赤穂分限帳」(あだ討ちに参加した者、変心した者、切腹した者、赤穂を退散した者を区別して書いている)や「赤穂義士後日譚」(義士の肖像・戒名が書かれている)の2枚の瓦版が同書に収められている。また切腹が決まった際には、これに反感を持つものが増え、日本橋に幕府が立てていた高札に悪戯するものが現れた事件が発生している。
  • 現在はあまり言及されないが、実は当時の赤穂浅野家の領地での評判は極めて悪かった。外様の分家5万石に過ぎない身代にも関わらず、祖父の代に赤穂城を幕府に懇願してまで築城したため(「一国一城令」の後の話である)、赤穂藩の財政は逼迫しそれは内匠頭の代にも持ち越され、年貢の取立ては苛烈を極めていた。浅野家断絶を知った領民は餅を搗いて祝ったという記録すらある。
  • 吉良の領地であった愛知県吉良町では図々しさは職務だけの様で、名君と慕われていた。『忠臣蔵』が演じられると肩身の狭い思いを強いられることになった。また、事件のあった彼の屋敷周辺では死を悼むものが多かった。地域住民から羽振り良く物を買ったり、また困った者が居たら家来を通じて金品を与えて生活難を助ける人柄だった。その後の屋敷周辺の落書等の被害は『忠臣蔵』を見る等をして、他地域から来た者の仕業であった。

幕府裁定の正当性[編集]

主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われている。確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつか存在している。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

江戸城外でも刃傷事件が発生している。

  • 慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。久米と松平はその場で斬られて死んだ。喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。また直接は関係ない水野も切腹となった。原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。
  • 延宝8年(1680年)6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝永井信濃守尚長に対して刃傷に及んだ。内藤は切腹改易。永井は即死した。永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。

喧嘩両成敗は幕府前期の刃傷事件にはしばしば使われた法であったことが分かる。しかし、徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件はなかった。また綱吉時代に久々に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で討たれたため、そもそも喧嘩か否かという問題にはならず、ただ加害者を切腹させればよいだけだった。つまり、刃傷事件で被害者も加害者もともに生き残った例が長く存在しなかった。

赤穂事件によって、幕府の喧嘩両成敗の基準は、家光までの時代と綱吉の時代で変わってしまったようだ。つまり、家光時代までは因果関係も含めて喧嘩と判断していたのが、綱吉は因果関係は問題とはせず事実関係のみを喧嘩の判断としたのである(斬りかかったのは浅野だけ・吉良は刀を抜いていない)。「喧嘩」の定義があいまいなので、その時の権力者が恣意的に解釈するしかないのが「喧嘩両成敗」であった。

そもそも「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、カブキ者が好んだ法であった。戦国武将でもある徳川家康徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったという。これも儒学を好んでいたとされる綱吉の判断にも影響を与えた可能性がある。

後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生している。徳川吉宗の時代の享保10年7月28日1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件である。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗徳川綱吉の違いがここにあると言われる(ただし、水野家は譜代の名門であり、単に吉宗が水野家をひいきしただけではないかとも言われる。もし立場が逆なら、毛利家を一方的に切腹改易に処していたかもしれない)。

だが、この事件に関してはそもそも「喧嘩両成敗」というのは大きな間違いである。本件に関する幕府の裁定は浅野の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良は抜刀はしていないので理由の如何を問わず無罪である。

参考文献[編集]

  1. 忠臣蔵とは何か 丸谷才一

創作物[編集]

忠臣蔵については「忠臣蔵」に詳説

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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