川上初枝

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内山若枝(1945年頃)、『大連・空白の六百日』(富永 1986 )口絵写真

川上 初枝(かわかみ はつえ、1906年? - 1950年?)は、日本・旧満洲の宗教活動家・特殊工作員。在旧満洲の実業家・特殊工作員だった川上賢三の長女として生まれる。1921年に東京で、大日本日蓮主義青年団で活動していた若林不比等と知り合い、1923年に結婚(若林 初枝、わかばやし はつえに改姓)。若林と共に旧満洲へ渡り、父・賢三から関東州関子の農場の経営を引き継いだ。

1931年に東京で菊花会を主宰していた小田秀人と出会ってから「物理的心霊現象」を発揮するようになったといい、1933年頃から出雲大社教千家尊建とも交流があった。板垣征四郎の謀略機関に属して、夫の若林や舟田六郎竹内重郎斎藤義暢執行稲造らと「篁の一団」と呼ばれたグループを形成し、道名・篁 白光(たかむら びゃっこう)を名乗って、旧満洲や中国各地の道院紅卍字会に出入りし、宗教的な宣伝・宣撫活動を通じた謀略工作を行った。

この間に若林と離婚し、内山 若枝(うちやま わかえ)を名乗った。1939年-1940年に日本で、左派から転向した宗教団体の指導者を皇運扶翼会に参加させる運動や右翼団体・日本建設協会の活動に関与。1940年に日高輝忠と結婚し、日高 みほ(ひだか みほ)、日高 みほ子(ひだか みほこ)を名乗った。1940年-1941年頃に朝鮮半島において朝鮮文人協会の設立に関与。太平洋戦争の開戦前夜からインド人工作に関与し、開戦後もインド独立連盟を支援するなどした。

1945年の日本の敗戦後は大連に留まり、進駐してきたソ連軍の司令部に出入りして新聞『新星時報』の発行や労働統制委員会の組織化の交渉に関与した。1946年初にソ連軍によって銃殺されたともいわれているが、富永 (1986 339)によると、1950年に中国公安局に逮捕され、処刑されたとみられる。

経歴

生い立ち

川上初枝は、東方拓殖協会 (1926 40)によると1906年(明治39)に父・川上賢三と母・しつ子[1]の長女として、富永 (1986 334)によると1903年(明治36)に長崎県佐賀唐津神社の宮司の三男だった川上賢三の子として生まれた。

富永 (1986 335)によると、長崎高等女学校から東京女子高等師範学校に進学して首席で卒業、在学中は男袴で通学していたという。笹目 (1979 20)にも、東京のお茶ノ水高等師範を出た才媛、との言及がある。妹尾 (1974b 216)によると、川上は、1921年4月27日に「眼病」のため「高師退校」について相談をしており、(東京の?)「高師」に在籍していたが、この頃中退したとみられる。

1921年、東京

川上の名は、1921年(大正10)初から、当時、大日本日蓮主義青年団で活動していた妹尾義郎の日記に現われる。川上は、同年1月31日に妹尾に書信を送った後[2]、同年3月24日に妹尾と初めて出会い[3]、同月27日に母と共に妹尾のもとを訪れ、本多日生を訪問した後、妹尾・若林不比等と夕食をともにしている[4]

  • 富永 (1986 335)は、川上が在学中に明治大学の学生で「日蓮宗若人の会」の会員だった「内山昌夫」と知り合った、としている。

川上さん眼病にて高師退校云々の相談を受く。気の毒の友なり。午から若林兄と3人電車にて馬場先門[地図 1]を通過する際川上さんが唱題の声を弾ませる。非凡。

上野公園を一寸歩き統一閣に帰りて唱題する。色々身の上話をきゝ病気につきての所感を感じ大に力づける。此の人にして此の病あり、仏の利益をたれて此の女史を救ひ給へ。法難ならんゝゝゝゝゝゝゝ。大に修行して同女の快癒を祈らざるべからず。可憐の女子。幸に強盛の信を以て接近せよ。

妹尾義郎 1921年4月27日の日記の中で[5]

同年4-6月にかけて、川上は、茶山鶴子[6]と2人でしばしば青年団を訪れ、妹尾や若林の活動の手伝いをしていた[7]

若林兄と統一閣に帰る。子供会、川上初枝さんがお話する。その口調態度の大人びたるは感服す。星野、松岡両兄出席。

若林兄と川上さんの奇蹟的告白をきく。普通の婦人にはあらざるべし。その病気は誠に気の毒也。然し善知識ならしめ、自愛大成を祈る。田村さんによく似たる所あれど又大に異なるものあり。一風異れる人格なりけり。(…)

妹尾義郎 1921年5月1日の日記の中で[8]

同年7月以降の事跡は妹尾の日記にはみえず、1922年(大正11)7月18日に書信で妹尾に何かしら忠告をしたことがみえる程度である[9]

1923年、渡満

1923年(大正12)3月頃、若林と結婚し、渡満[10]。同年3-5月頃、大連で披露宴が催されたとみられる[11]

大連市 (2004 127-128)によると、この年、川上と若林はともに満洲へ渡り、川上の父・賢三から関東州復県瓦房店市関子の農場の経営を引き継ぎ、日高見農場と名付けた。日高見農場は、主として果樹(林檎)栽培を行う農場で[12][13]関東軍の特務機関である三京公司の下部組織の一つだったとされている[12]

富永 (1986 335)によると、内山若枝(川上の仮名)は、瓦房店近くの万家嶺[地図 2]に住んでいた。

  • 川上は、同地で3女2男をもうけた。育児には無頓着で、抱いて出た子供をあちこちに置き忘れて帰ることがよくあったという。[14]
  • 子供達を将来日中の架け橋にするためには中国人の中で教育しなければ真の信頼関係は生まれないという信念を持っており、学齢に達した子供たちを、中国人の学校に入れた[14]
  • この頃、川上は、大国主命の着衣をヒントにした「白いたぷたぷの衣服」で大連の街頭に立ち、荒法師のような言動で、日蓮宗の布教につとめていた[14]
  • また大連と日本を往復しながら、禊教言霊の研究にも熱中し、降霊術を行った[14]

1929年、大連

若林初枝は、1929年5月に創刊された『満洲短歌』の同人だった[15]。『満洲短歌』創刊号には、若林の作品が掲載されている。

菫咲かば ふたゝび来むと 乙女子の 誓(うま)ひ愛(かな)しも はや咲けすみれ等

若林初枝 『満洲短歌』創刊号(1929年5月号)より[16]

1944年に編纂された『満洲文学20年』の論評[15]は、『満洲短歌』の同人組織はそれほど厳格に確立していたわけではなかったようだ、とした上で、同人の中に大本出口王仁三郎が含まれていたことを訝しんでいる。

1931年、東京

菊花会を主宰していた小田秀人の回想によると[17]、1931年の初め頃、内山若枝は、初めて東京の小田を訪ねて来た。内山は「天性の霊言現象霊媒」で、内山を通して「宮司さん」という神霊が「能狂言がかった名せりふ」を話したという。小田の勧めにより内山が行なった「自動書記」の結果、英語で「Shining Field Changed Kikkakai. The Sun is Kikkakai.」と託宣があったため、「一同」が合議研究した結果、満洲の日高見農場を処分して菊花会を復興することになったという。

同書によると、内山は「物理現象的霊能」を発揮したいという野心を持っていた。内山は、満洲の農場にいる頃から、冬の農閑期に農場で働く日満の男女の青年を集めて物理現象の練習をしていた。父親の川上賢三も心霊が好きで心霊に関する書物を収集しており、内山は子供の頃からその影響を受け、女学生の頃から「精神的現象霊媒」としての能力を発揮するようになっていた。内山は小田のもとを訪れた後に、「物理現象霊媒」たる亀井三郎に会ってたびたび実験会に参加し、亀井を崇拝していた。また、内山に随行していた斎藤義暢が大連に帰ってから「物理現象的霊能」を発揮するようになったという。[18]

その後、竹内栄一日本橋の駒木某宅で開いていた「練習会」に小田とともに参加した際に、「降霊現象」が起きて内山は「物理現象霊媒」となり、物品浮揚、移動、空中談話、物質化現象などの霊能をマスターしていった。しかし、内山は小田の意見や指導には従わなかったという。[19]

ただ内山女史のやり方の一般の霊媒さんと違うところは、一般には現象を暗黒の中で行うので、キャビネットも周囲の幕も一切黒ずくめであったのに対して、彼女の霊の指示は一切を白絹ずくめでやったことだ。

周囲に張り廻らす幕もキャビネットも一切が白絹ずくめ――その上キャビネットの中の席も普通はただの椅子に霊媒さんの手足を厳重にくくりつける習慣であるが、彼女の場合は椅子の代りに約1米立方の檜製の台を用い、その上一ぱいに白絹の座布団を敷き、彼女は衣裳も袴もすべて白絹……その上に白絹の鉢巻姿で現象を行うのである。そしてメガフォンは2,3本とも無論白ずくめである。

現象が始まるとその白ずくめあざやかな装備の中で懐中電灯が赤い光を点滅しながら室中を飛び廻り現象を見せてくれたのであるから、その美しい神秘の情景はいまだに目の前にチラツク思いである……。

小田秀人 内山若枝の「物理現象的霊能」についての回想[20]

大連市 (2004 127-128)によると、1931年9月18日の満州事変の後、川上初枝は父・賢三の指示を受けて、夫・若林不比等とともに日本に帰国し、東京で貴族院議員の井上清純、海軍少将・東郷(某)、海軍中将・小林(某)、小笠原長生、佐藤(某)、前陸相の宇垣大将および萩野中将らを訪問して、満州国建国への全面的な支持を訴えた。

同書によると、1932年に若林不比等は、関東軍から指示を受けて紅卍字会に介入したといい、以後、長期間にわたって復県の紅卍字会の名誉会長、満州国の紅卍字総会責任会長の職にあり、同会を通じて宗教団体を「操縦」していた。

1933年6月頃、父・賢三が死去。同月22日に東京の成城学園で葬儀が行われた。[21]

1933年10月、大阪

1933年(昭和8)10月22日、内山若枝は、大阪の東区博労町4丁目の服部時計店で開かれた、大阪心霊科学協会の講演会に参席した。岸本芳吉中村弘治浅野和三郎らによる講演会の後で、臨時に内山の「入神実験」が行われ、入神状態となった内山には亡父・川上賢三の霊が憑き、浅野と約30分間問答をしたという。同会の会報『心霊と人生』[22]の中で、内山若枝は「大連、奉天、新京等に於て心霊団を組織し、亀井霊媒を加へて活躍しつゝある」人物として紹介されている。

1933年12月、東京

同年12月20日、内山は、小田秀人、松本吉晴梅田寛一夫妻とともに、東京・成城巴章呂で「神言拝受の儀式」を行った[23]。儀式には「巴章呂の一党」の若林不比等、舟田六郎竹内重郎、斎藤義暢(萩原真)、執行稲造らも参加した。このとき、霊媒となった内山は、「みちから ちはえて あめつち ゆりませ」という16音の「ことたま」の託宣をした。[24]

  • 同月18日に予行神事として行われた中国式神示の扶乩(乩示)では「顕彰大神通力」の6文字が与えられたといい、「みちから ちはえて…」はその日本語訳(やまと言葉)とされている[25]
  • なお、この儀式と託宣は、同月23日の平成天皇の誕生と、なんとなく関連付けられているようである[26]

1935年7月、奉天

笹目 (1979 19-20,24)によると、若林初枝は、1933年頃に笹目と初めて会ったとき、出雲大社教千家尊建の周辺にいて、「関東州の婦女道徳社を指導する有力な存在」とされていた。

1935年7月下旬、笹目が、参謀本部外務省の委託調査を兼ねた青海西蔵の原始宗教の研究のためとして新京の関東軍第4課に青海省に入ることを申請し、許可を得て、準備のため奉天に滞在していたときに、同じ頃、奉天のヤマトホテルに滞在していた千家尊建の周辺にいた川上が訪れ、西海行への同行を求めてきた。川上は、既に夫の若林白陽とは離婚しており、青海の国造りに協力するため笹目と結婚せよとの神の託宣があったと話し、自分がついて行かなければ笹目の「神業」は成就しないとか、自分が加わらない西域行は神がお許しにならないと言って帯同を求めたが、笹目は女性とは同行できない、とこれを拒否した。[27]

その後、川上は新京にいた笹目を海軍士官の柴崎武徳とともに再訪して更に同行を求め、自分は若林と結婚してから4人の子供を産んだが、聖母マリアのように「託胎の法」に拠ったのでまだ処女だと申し開きをしたという。しかし笹目は、自分はそんな言葉には騙されない、「託胎の法」は天下非常の際に聖賢を遣わす時に用いられるもので、豚が仔を生むように10年間に4人も生まれるようなことはない、と言って返し、交渉は物別れに終わった[28]

笹目は奉天滞在中に発熱して、新京で腸チフスと診断されたといい、「青海での国造りを邪神がその構想通りのものに仕上げようとし、若林に憑依して言うことを聞かせようとし、言うことを聞かないからあらゆる妨害をして足留めをしている」として奉天・大連を経由して朝鮮・京城の小林覚善の下へ引き返し、満州の「白狐の霊」が笹目を追っており、その「霊線」が朝鮮にも及んでいる、として一度日本へ帰国した[29]

板垣機関と紅卍字会の利用

三村 (1953 186-190,221-222)によると、日高みほは、戦前から戦時下に最も大胆に親猶運動に活躍し、国内や大陸で憲兵隊や特高に始終検挙・留置されていた、という。「彼女の活動舞台は大陸各地から仏印あたりまで足跡がのびていただけに検挙の度数も一番多く、全く憑かれたるものの如く憲兵や特高や参謀本部などを尻目に命がけで動いていた。」三村らは、川上が率いたグループを篁(たかむら)の一団と名付け、日高を道名の「白光(パイコウ)」で呼んでいた。

三村 (1953 264-265)によると、川上は板垣征四郎の諜報機関に所属しており、蒙古徳王を「引張り出す」工作に関与した。関東軍や参謀本部の関係者に世界紅卍字会の思想や存在意義を宣伝しており、日本軍の紅卍字会介入にあたっては川上の影響が大きかったという。板垣征四郎や小磯国昭はともに日蓮宗だったが、2人とも大陸の新興宗教である道院や世界紅卍字会に関心を持ち、道名をもらっていた。川上は藤原勇造や篁白陽(若林不比等)とともに紅卍字会朝鮮主会の設立に関与し、川上の一派は旧満洲や中国大陸の各地の道院や紅卍字会にも出入りしていた。

1937年、北平

大連市 (2004 127-128)によると、1937年7月の盧溝橋事件の後、川上は夫や子供とともに北平へ移動。夫の若林不比等が、日本の華北派遣軍(北支那方面軍)の特務機関と連絡を取って、嘱託に任命され、中華紅卍字総会副会長の身分に隠れて、宗教を推進・普及するためとして、日本軍が侵入した後の華北地方で、中国の民衆の間に起っている問題を調査し、日本が華北を統治するための政策や宣撫工作を展開するための策略を提案した。

1938年、新京‐大連

1938年頃、内山若枝は新京から大連へ転居した。内山の転居に伴って、新京で会合し活動していた「清明短歌会」は、「満洲短歌会」に合同したとされている。[30]

またこの頃、内山は、満洲短歌会のほかに、大連の東公園町技術会館内にあった『満洲婦人新聞』の記者としても活動していた[31]

1939年、東京

1939年2月下旬、川上初枝(内山若枝)は、新興仏教青年同盟での活動が治安維持法違反にあたるとして検挙され仮釈放中だった妹尾義郎のもとを数年ぶりに訪問。満州、支那、朝鮮方面で皇道世界聯盟の運動をしている、と妹尾に語った。妹尾は、川上の「超国家的な人類同志としての態度」に理解を示しつつも、「皇道精神をよくのみこんだ上で、それぞれの民族の特殊性をまげないで正しくのばしてやるやうに誘導せねばならぬ」と日記に感想を記している[32]

同月28日、「30年間満洲で生活され一見日本の方とは思はれない程あちらの人になりきってゐる感じ」[33]の内山若枝(篁白光)は、(東京婦人会館で?)輝く部隊が開催した「在満支の人々を囲む会」に出席し、「婦人の立場から」の意見を述べた[33]

永年満洲で暮しほんとうに日本を信頼させる為にはあらゆる場合決して相手を軽蔑しないと云ふ人でなければ中国へ行つて貰ひたくないと申上げたい。でなければ折角出来かけたよい空気をぶちこはす様なものだから。何か日本は、東洋の盟主だと云ふ様な態度をとることは、禁物である。欧米諸国が支那に根強い勢力を持つてゐるのは決して不思議ではない。欧米の人達は支那の文化のために早くから献身的な努力をしてゐる。支那のどんな山奥に入つても何の背景もなく単身で会堂を護り、支那人の為に仕事をしてゐるのは旧教の坊さんである。どんな辺土にも会堂がありそこを中心にして部落が出来てゐる。その献身的な態度には敬服する。軍事的援護などなく共やつてゆけるだけの腹をつくる事が大切である。且て日本にさう云ふ献身的な人があつたか。ほんとうに仕事をし様と云ふのには一時的な感情からでは駄目で、やはり修道とか諦観とかと云ふものが必要である。と云つて何か大陸へゆくのに悲壮な決心等で行かずとも楽な気持で行つた方がよい。

支那の婦人は日本の男子を大てい嫌つてゐるので、支那婦人との提携には是非日本の婦人が立たなくては駄目である。それには先づ政治を論ずることよりも芸術的なやはらかい雰囲気から結びつく事が一番よいと思ふ。

内山若枝 1939年2月28日、輝く部隊の座談会にて[34]

  • 川上の、渡満した日本人は中国人と対等に交際すべき、とする主張について、富永 (1986 )は汎民族的な思想として評価しているが、広瀬 (1997 193-194)は、あくまで日本の支配の下で信頼を獲得し中国人女性を教化することを目的にしていた、と指摘している。
  • いずれにしても、川上は、「輝く部隊」において日本の女性に「楽な気持で」大陸へ行くことを勧め、身の安全を保障してくれる軍事的な後ろ盾がないような状況でも、お国のために献身的に働くことを勧める立場にあったようである。「旧教の坊さん」の活動を見本にして宗教を媒介に浸透をはかるという主張には、当時の日本軍の宗教工作の方針[35]との類似性が認められる。

同年から翌年にかけて、内山は一定期間、東京に滞在して活動していたようである。満洲文話会 (1939 467)は、この頃の内山若枝(川上ハツエ)の住所地を、東京淀橋区百人町としている。同年9月27日には、日高輝忠とともに、1審の東京地裁で治安維持法違反での有罪判決を受けて控訴中だった妹尾義郎を訪問[36]。妹尾に大日本日蓮主義青年団の機関誌『若人』の復刊を持ちかけた[36]

1940年1-2月には、妹尾に控訴審のための弁護士を紹介することと並行して、妹尾に簡牛凡夫千家尊宜を紹介し、中島知久平を総裁として同年2月11日の紀元節に発足を予定していた皇運扶翼会の傘下で活動することを促した[37]。また日高や岡本某(精一?)とともに日本建設協会を組織し、宗教の研究をして機関誌『日本建設』を発行していた[38]。内山は成城学園や、六本木にあった出雲大社教東京分社などを活動拠点としていた[39]

1940-1941年、京城

1940年6月頃、日高輝忠と結婚[40]

1940年か1941年頃、日高みほ子は、京城の侍天教会堂で、林房雄が旧一進会(東学党)の子弟や朝鮮の左翼(印貞植車載貞ら)右翼(玄永変李碩奎南廷国ら)の尖鋭分子を集めて開いた座談会に出席し、席上、朝鮮文人協会の結成を提案[41]。翌日、京城の明治町明洞)にあった「大きなグリル」で開催した倉田百三と林房雄を囲む朝鮮文壇人の懇親会に李光洙を出席させ、朝鮮文人協会を結成させた[41]。その後も日高は同協会に序言を行い、同協会が「文壇統一の総合機関誌」を発行し、「戦時下の半島に貢献」するのに関与していた[42]

1941年、東京

1941年、日高みほは、当時、東京・千駄ヶ谷東洋政治経済研究所を主宰していた原真平を訪問した[43]

同年秋、日英開戦前夜に、日高みほは、対英戦を有利に進めるためのインド人工作に関与していた。この頃、マレー工作の謀略に関わっていた徳川義親の日記によると、日高は、「印度人の問題」に関連して、同年9月15日に桜井徳太郎の紹介で佐藤嘉祐とともに徳川を訪問、同月18日にも塩田富造西野作太郞海軍大佐と徳川を訪問。翌1942年1月18日にも、インド人工作の関係で徳川に舟田六郎を紹介している。[44]

1942年、チチハル

1942年4月頃、日高みほは、チチハル第3108部隊・西村茂隊長の代理を務めていた。

謹啓 (宇垣)閣下益々御清適の趣慶賀この事に御座候。陳は今般小官の転補に方り御懇篤なる御芳情を辱ふし、小官は勿(ママ)より代理日高みほも感泣罷在り候。(…)

西村茂・チチハル第3108部隊長 (推定1942年)4月16日付、宇垣一成あて書簡の中で[45]

1942-1943年、東京

1942年 - 1943年頃、日高みほは、三浦一郎とともにインド(とユダヤ)の問題で林銑十郎を訪問[46]。同じ日に東京駅在日インド人会会長のA・M・サハイEnglish版と会合し、

  • 大東亜戦争を契機としてインドを独立させること
  • 仏印あたりの適当な都市でインド独立大会を開くこと
  • それを日本政府に働きかけるために、「海外にもニラミの利く人」に在日インド人会の顧問になってもらうこと

を話し合い、林に同会の顧問就任を打診したが、林は既にヒンドゥ教と反目しがちな在日回教徒の顧問を引き受けていたため、破談になった[47]

1942年10月21日に、妹尾義郎は、明治印刷井関好彦から川上の噂を聞いている。

井関兄から川上初枝さんの行状について何かと承った。

それについても思ふことは、世の多くの宗教家の裏面である。また教育家のそれである。果して表裏なく、神につかへ仏意に叶ふ生活者が幾人あるだらうか。教化の実のあがらないのは、決して偶然ではないと思ふ。大いに反省し自重せねばいけない、こんどこそ此のさんげ浄化された生活をもって、宗教運動界に多少でもあかるい真実性を培養せねばいけない。

妹尾義郎 1942年10月21日の日記の中で[48]

1945年、大連

富永 (1986 336)によると、敗戦直後、内山若枝は夫と別れ、2人の娘とともに大連に移住。市内美濃町の料亭「淡月」の一室で生活していた。

※同書の文脈からすると、このとき内山は若林不比等と離別し、万家嶺から大連へ移住したように読めるが、上記のように川上は、1940年6月に日高輝忠と再婚しているため、若林との離婚はそれ以前のことであり、また旧満洲での住所地は、1938年頃に新京から大連に移っている。日高と離婚したのか、またこのとき別地へ移住したことがあったのかは不明。

内山は、ソ連軍が大連に進駐した後、積極的にソ連軍の指導者に接近。うちイワノフ海軍少佐の住居の物色を頼まれ、「淡月」の2階を提供。ソ連軍司令部にも出入りしていた。「淡月」には八達組も同居しており、内山はその女組長と誤解されていたが、内山の次女・まき(仮名。川上正子)の話によると、八達組と若枝は無関係だったという。[49]

富永 (1986 336-337)によると、1945年10月20日の『榊谷仙次郎日記』には、「内山若枝が『秦皇島からの石炭運搬を別宮市長から頼まれた。ソ連海軍にやっと話をつけたところ、昨日になって市長から資金が集まらないからと断られた』と怒っている。彼女が、日本人会新旧交代の席に自分も出席したいと申し出る。商工会議所では市長を無能ときめつけ、出井盛之理事長は、若枝が市長になればいいとさえ言う」と記されている。

1945年10月頃、川上は、『大連日日新聞』の上田淳一編集局長や、『朝日新聞』の山崎支局長らと新聞『新星時報』の発行を準備しており、ソ連軍司令部と折衝をしていた。しかし発行直前の同年11月7日にソ連軍の将校によって新聞の発行は差し止められ、川上はソ連軍に連行された。[50][51]

  • 川上は旅順衛戌刑務所に収容されたと伝えられた[52]
  • 富永 (1986 337)によると、川上が提出した趣意書がソ連軍におもねるあまり、激しくアメリカを攻撃していたため、ソ連側も発行させるわけにいかないと考え、急遽発行を中止させたという。

連行後、川上は1ヶ月近く監禁された。その原因は、次女まき(仮名。川上正子)の話によると、父・賢三のことや紅卍教に関連したことであったようだという[53]

1ヶ月余の後に、川上は釈放されたらしく、再び大連に現われ、「ソ連の意向の代弁者の様に」日本人の手による新聞発行は絶望的であることや、日本人が組織を許される団体は「労働組合」だけであることなどを語っていた[52]

川上は労働統制委員会の設立に関与しようとしたが、このとき既に中国人の労働者は「職工総会」を立ち上げており、日本人労働者は戦時中満鉄調査部事件関東刑務所に収監されていた石堂清倫らが主導する日本人民主連盟によって組織化されており、川上側には労働運動のノウハウもなかったため、組織化は進展しなかった[53][52]。1945年12月3日に民主連盟側の申し入れで川上らとの話し合いが行われ、下部に組織を持たない川上側がソ連当局への請願活動から撤退することになった[52]

  • 吉岡 (1953 148)は、戦後の大連における労働統制委員会の設立活動について、「結果的にいって単にソ連を利用して私利を図ろうとする機会主義者に過ぎない川上女史は、マルキシストであり一応実践運動をも学びとっている『民主連盟』側の敵ではなかった」と評している。

死去

吉岡 (1953 148)は、1945年12月3日の会合から1ヶ月後に川上初枝は再びソ連当局によって拉致され、のち銃殺が伝えられた、としている。

富永 (1986 339)は、内山若枝は1950年頃、中国公安局に逮捕され、その後、残留日本人の1人が、川上を乗せたトラックが刑場に向かうところを目撃した、としている。

  • 大連市 (2004 127-128)は、1961年2月に川上の元夫の若林不比等が中国の公安局に検挙された際の容疑として、1945年8月にソビエト軍が中国東北部に出兵し、日本の敗勢が決定的になった後、若林が紅卍字会を通じて満洲中央銀行の資金を通化の一帯でゲリラ戦を展開していた三京公司の特務機関に横流しする媒介役をしていたことを指摘しており、川上も同じ容疑で検挙された可能性がある。

三村 (1953 222)は、日高みほは満洲で終戦を迎え、ソ連に抑留されて1953年当時も帰還していない、としており、同書281頁では、終戦後、一時ソ連に抑留されたが、1953年当時、北朝鮮に入り込んでいると伝えられている、としている。

こうした情景がもう二度と見られぬのは遺憾至極だが、終戦を境に二度と再び姿を現わさなかったのだから、止むを得ない。――終戦の時ソ連軍に逮捕されて銃殺されたらしいとの噂もあったが、何らの確認も終に得られなかった。あるいは朝鮮の実力者の家にかくまわれているらしいとの風聞もあったが、これにも何らの確報があったわけではない。もし霊界に行っているのであれば霊人としてでも現われて欲しいと、斎藤霊媒竹内霊媒を通しての交霊会に希望をつないだが、遂に一度も姿を表わさなかった。ただ終戦までの永い間に何度か現われて行動もともにしたし、別項にあるような昭和8年の2万年に1度の天空の異変の前後にはそのさっそうたる姿と現象を見せてくれたことは、いまだに目を閉じれば瞼に写し出されるような強い印象を残していることは、せめてもの思い出である。

小田秀人 終戦後の内山若枝の消息についての回想[54]

扶鸞の言葉

大連市 (2004 127-128)によると、川上の元夫・若林不比等は、1945年8月15日に日本が降伏した後、長春に留まり、1946年春に娘の川上正子の訪問を受けてともに瓦房店の日高見農場へ戻り、名前を「黄理然」と改めて中華人民共和国建国後も同地にあったが、1961年2月に「帝国主義日本の長期潜伏スパイ」容疑で復県と旅順・大連の公安局に検挙され、中国の司法機関によって「法に従い処理された」。

若林は川上から「神は日本帝国を護ってくれます。あなたは祖国のことを心配する必要はありません。大陸に留まり、共産主義の拡大を阻止するのです」との扶鸞(占示)を受けており、終戦後もその言葉を信じていたという。

家族

  • 父は川上賢三、母はしつ子[55](「静」か[56])。
  • 川上には5人の子があり、うち娘3人は中国人と結婚し、1986年当時も日中間を往復していた[57]
  • 二女・正子(仮名・まき)は、母・初枝の中国語の通訳をしていた[57]。終戦後2度、三浦一郎の住居を訪問したことがあり、その後、大陸に渡航(密航)して活動していたという[58]大連市 (2004 127-128)によると、1946年春に長春で暮らしていた若林不比等を訪ね、ともに瓦房店の日高見農場へ戻ったという。
  • 従妹の川上信子は、川上が降霊術の実験で「霊媒」となった現場に立ち会ったことがあるという[14]

交友関係

評価

  • 三村 (1953 278-280)「川島芳子と併び称せられた人で、大陸女浪人と云つた感じの人である。(…)筆者ら仲間では女史に国籍があつたかどうか、もしあるとすれば果して日本か満洲か中国か朝鮮かと、問題にしていたほどである。容貌、言語、習慣等にはミジンも日本国籍を疑う余地はないのであるが、一たび彼の抱懐しているアノ国籍人種宗教を超えた雄大な思想と、これに基く勇敢な行動を見る時「この女、果して日本人か」と疑うことがシバシバあつた。女史に取つては大陸が郷土であり、大陸で生れて大陸で育つて、大陸に家があるのだから、日本に来るのは、チョツと旅行の積りらしかつた。よく支那服を着て銀座街頭でも新宿でも歩いていた。その実大陸にだつて定つた住居があつたわけではなく。たとえあつたとしても、そこに安居していられるような人ではなかつた。行つた先が住居であり、天が下か宿だつた。交際も広く、ファンも多かつたから、もちろん宿に困られるようなことはなく、つねに同志間を渡り歩いていたから、一定の住所などはあつても邪魔になり、その必要がなかつたであろう。夫も時にあつたり無かつたり子と称するものもあつたが、果して彼れの産んだ子か、と思うほど、かれは親子、夫婦、性別などを超越していた。果してかれは女だつたか、男だつたか、かれ自身その性別を知つていたかどうかさえ問題になるほど超然たる存在だつた。チヤンと身づくろいすれば一かどのシヤンだつたが、頭髪などもグルグル巻にしたり、ミミヅラに結つたり、フケだらけの頭をよくゴシゴシやつていた。あらゆる民族の解放と各宗教の結合をはかることを以て自らの終生の使命とし、この大望を果すためには世間的キヨホウヘンなどにかかわつていられないという態度だつた。実に真剣そのものであり、何ものかにせき立てられ、させられているという感じだつた。酒、煙草、肉食は嫌いで、朝食はやらなかつた。」
  • 三村 (1953 281)は、仏典、バイブル、日本古典等に明るく、歌をよみ詩を作り、各国の情勢や国内問題にもよく通じ、政府や軍の機密をよく知っていた、と評している。
  • 小田 (1985 150)は、内山若枝について、「一たび入神状態となれば、比類のない巫女式名霊媒であったが、他面弁舌さわやかなインテリ女闘士でもあった。また厚かましいというか、大胆不敵というか、女だてらに何びとの前にも物怯じせず、相手が大臣であろうが大将であろうが、また共産党の理論家であろうが、神霊の命ずるところどこへでも飛んで行って談じこむという、度胆と放浪性の持ち主でもあった。常識家にはいつも反揆されたが、また憎もうにも憎めない魅力的な存在でもあった」と評している。

著作物

  • 内山若枝「満州の宗教」『科学知識』v.18 n.10、1938年10月、pp.54-57
  • -「満州短歌誕生記」『満洲短歌 十周年特輯号』[59]
  • 著書『霹靂』 - ユダヤ問題に関する秘密出版書。大久保弘一が所持していた。[42]
  • 戦時中、翼賛会中央本部から出た『錬成の歌』[42]
秋岡 (2017 71,80,82)によると、興亜讃美歌『錬成の歌』は、1942年8月17日-19日に日本基督教音楽協会の主催により奥多摩鳩ノ巣で開催された「修養会」の後、同会に参加していた宇梶勝が作曲したもので、作詞は当初、長谷部俊一郎が行い、のちに鮫島盛隆の歌詞に差替えられた。

題材にした作品

付録

関連文献

地図

脚注

  1. 妹尾 1974b 219によると、母の名前は「静」の可能性がある。
  2. 妹尾 1974b 195
  3. 妹尾 1974b 208
  4. 妹尾 1974b 208-209
  5. 妹尾 1974b 215-216
  6. 川上は、東京では茶山豊也宅に滞在ないし下宿していたようである(妹尾 1974b 216)。鶴(子)はその五女(人事興信所(編)『人事興信録』人事興信所、p.さ33、NDLJP 1703995/846)。
  7. 妹尾 1974b 213-216,218-219,222-223
  8. 妹尾 1974b 216
  9. 妹尾 1974b 251
  10. 同月20日の妹尾の日記(妹尾 1974b 301)に、若林が川上と結婚し、大連に新婚旅行に行く旨がみえる。
  11. 杉原謙『在連古存 2編』9ウ(読我詩屋、1919-1925(大正8-14)、NDLJP 1239687/24 (閉))に、「慶川上初枝嬢之成婚」と題した詩編があり、前後の詩編の日付から、大正癸亥(大正12・1923)春以降、同年6月2日以前の出来事と推測される。
  12. 12.0 12.1 大連市 2004 127-128
  13. 小田 1985 58
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 富永 1986 335
  15. 15.0 15.1 大内 1944 90-91
  16. 大内 1944 87
  17. 小田 1985 56-60
  18. 小田 1985 58-61
  19. 小田 1985 61-63
  20. 小田 1985 64-65
  21. 妹尾 1974d 165
  22. 心霊と人生 1933 53
  23. 小田 1985 150-153
  24. 小田 1985 156-162
  25. 小田 1985 156-157
  26. 小田 1985 161-162
  27. 笹目 1979 19-25
  28. 笹目 1979 25-31
  29. 笹目 1979 25-33
  30. 満洲文話会 1938 18
  31. 満洲文話会 1938 460
  32. 妹尾 1974e 21-22
  33. 33.0 33.1 輝く会 1939 3-4
  34. 輝く会 1939 3
  35. 秋岡 2017 88
  36. 36.0 36.1 妹尾 1974e 73
  37. 妹尾 1974e 100,102-103,107
  38. 妹尾 1974e 113,114
  39. 妹尾 1974e 112,114-115
  40. 妹尾 1974e 138
  41. 41.0 41.1 三村 1953 280
  42. 42.0 42.1 42.2 三村 1953 281
  43. 三村 1953 210
  44. 粟屋 小田部 1984 295
  45. 研究会 1995 323。同書簡は年不詳であるが、(1)「日高みほ」名の使用は1940年6月に日高輝忠と結婚した後のこととみられ、(2)文中に言及のある「田中兵務局長」すなわち田中隆吉が兵務局長となったのは1940年12月で、1942年9月まで在任しており(要出典)、(3)宇垣一成が宛先住所の「静岡県熱海市水口園本家」を住所地としていたのは1941年12月末から1942年4月上旬と考えられることから(宇垣一成#昭和16-20年の住所地)、1942年の書簡と推定される。
  46. 三村 1953 248
  47. 三村 1953 248-249
  48. 妹尾 1974e 506
  49. 富永 1986 336
  50. 吉岡 1953 147
  51. 富永 1986 337
  52. 52.0 52.1 52.2 52.3 吉岡 1953 148
  53. 53.0 53.1 富永 1986 338
  54. 小田 1985 65
  55. 東方拓殖協会 1926 40
  56. 妹尾 1974b 219
  57. 57.0 57.1 富永 1986 339
  58. 三村 1953 222
  59. 満洲文話会 1939 21 - 武田勝利「歌壇概観」
  60. 原 2009 190-192

参考文献

  • 秋岡 (2017) 秋岡陽「旧讃美歌委員会の解散と『興亜讃美歌』の誕生」『フェリス女学院大学キリスト教研究所紀要』ISSN 2423-9127 v.2、2017年3月、pp.71-99
  • 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
  • 大連市 (2004) 大連市史辨公室『大連市志・公安志』方志出版社、2004年、ISBN 7801921321
  • 広瀬 (1997) 広瀬玲子「女性にとって15年戦争とは何であったのか」アジア女性史国際シンポジウム実行委員会(編)『アジア女性史 - 比較史の試み』明石書店、1997年、ISBN 4750309397、pp.189-203
  • 研究会 (1995) 宇垣一成文書研究会(編)『宇垣一成関係文書』芙蓉書房出版、1995年、ISBN 4829501510
  • 富永 (1986) 富永孝子『大連・空白の六百日』新評論、1986年、JPNO 86050293
  • 小田 (1985) 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291
  • 粟屋 小田部 (1984) 粟屋憲太郎・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』v.99 n.8、1984年8月、NDLJP 3365998/145 (閉)
  • 笹目 (1979) 笹目恒雄『神仙の寵児 6 地恵篇(上)』山雅房、1979年、JPNO 79033844
  • 妹尾 (1974e) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第5巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
  • 妹尾 (1974d) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
  • 妹尾 (1974b) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138
  • 三村 (1953) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年
    • 初版:日猶関係研究会、1953年
    • 新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163
  • 吉岡 (1953) 吉岡克美「悲愁に咽ぶ街大連」『秘録大東亜戦史 第1巻 第2部 満洲編 下』富士書苑、1953年、NDLJP 2991789/69 (閉)
  • 大内 (1944) 大内隆雄『満洲文学20年』国民画報社、1944年、NDLJP 1876004 (閉)
  • 輝く会 (1939) 輝く会(編)『輝ク』1939年3月17日、v.7 n.3、pp.3-4
    • 復刻版:『輝ク 第1巻』不二出版、1988年、JPNO 89019279、pp.281-284
  • 満洲文話会 (1939) 満洲文話会(編)『満洲文芸年鑑 昭和14年版』満洲文話会
    • 復刻版:第3輯、葦書房、1993年、JPNO 94016866
  • 満洲文話会 (1938) 満洲文話会(編)『満洲文芸年鑑 昭和13年版』満蒙評論社
    • 復刻版:第2輯、葦書房、1993年、JPNO 94016866
  • 心霊と人生 (1933) 「各地便り」『心霊と人生』v.10 n.12、1933年12月、pp.52-53、NDLJP 1769418/28 (閉)
  • 東方拓殖協会 (1926) 東方拓殖協会『支那在留邦人興信録』1926年
    • 影印版:芳賀登ほか(編)『日本人物情報大系 第11巻』皓星社、1999年、ISBN 4774402699

外部リンク