竹内好
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竹内 好(たけうち よしみ、1910年 - 1977年3月3日)は、日本の中国文学研究者。
経歴
1910年生まれ[1]。
戦時下で、日本と留学先の北京を行き来した[2]。武田泰淳らと中国文学研究会を開いた[3]。
1954年5月に講談社を版元として創刊された第3次『思想の科学』の編集長に就任[5]。1955年に『サンデー毎日』などが同誌編集部内の鶴見俊輔周辺のスキャンダル記事を掲載したことに抗議し、内部調査を行って報道された事実が存在しないと結論付けた[6]。
60年安保のとき、1960年5月18日に安保批判の会の代表の1人として岸信介首相と面会し、国会解散を求めたが、翌19日に新安保条約が衆議院本会議で自民党単独で採決・可決されたため、同月21日に抗議して都立大学教授を辞職[7]。
1961年の『思想の科学』天皇制特集号廃棄事件のとき、思想の科学研究会臨時集会の議長を務め、言論の自由の問題であることを指摘しつつも、中央公論社に抗議せず、廃棄された天皇制特集号の自主出版を実現する旨の声明をまとめた[8]。
1976年12月頃、がんのため東京・吉祥寺の病院に入院。翌1977年3月3日に死去。同月10日に信濃町の千日谷会堂で葬儀が行われた。葬儀のとき、弔辞を読んでいた増田渉が倒れ、病院に運ばれたがそのまま死去した。[3]
2008年12月6日に鶴見の意向により、京大会館で編集グループSUREと思想の科学研究会の共催で、シンポジウム「竹内好の残したもの」が開催された[9]。
付録
関連文献
- 鶴見俊輔『竹内好 - ある方法の伝記』〈シリーズ民間日本学者 40〉リブロポート、1995年、ISBN 4845709775
- 再版:〈岩波現代文庫〉岩波書店、2010年、ISBN 978-4006002411
脚注
参考文献
- 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090