大島鍛
大島 鍛(おおしま きとう、生年不詳 - 没年不詳)は、徳川農場の事務員、北海道二海郡八雲村の地方青年会の指導者。札幌農学校で学んだ後、徳川農場の事務員をしながら、八雲村の字・砂蘭部の大新部落で農業青年会を組織し、「不良分子」を排除し、夜学を通じた農業教育や、新しい農業技術の普及活動を続けた。クリスチャンで、また演説をする人物として知られた。
経歴[編集]
内務省で盛んに地方青年会や産業組合の組織を奨励していた頃、八雲村の字・砂蘭部(サランベ)の一角、徳川家の開墾地の中でも農業知識の普及が遅れ、衰微していた大新部落で大新農業青年会を組織[2]。部落の中で、博徒や不真面目な小作人を「いたたまらないように仕向け」るなど「不良分子の掃蕩」を行い、夜学を開き、肥料の購入の便宜をはかったり、新しい農具の使用を勧めたりして、村内で数少ない地方青年会の成功例となった[3]。
大島は、青年会の支援者や、八雲村の小学校長・伊藤直太郎の弟・伊藤政雄らに助けられて農業指導や夜学での農民の子の教育を続けた[4]。
また大島はキリスト教を信仰しており、一時村を出て各地を流浪していた真野鉦之輔は大島に勧められてクリスチャンになり、青年会の副会長となった[5]。
人物[編集]
(…)大島さんはその大きな眼玉に相応した大きな口を開いて演説をする。彼は身振り、手振りを交へて、先輩の徳川家の恩顧に反いた堕落を攻撃した後に、彼のアメリカの深林の中には幾多の偉人と、幾多の詩人とが生れた。我が北海道は総ての点に於て彼の偉大なるアメリカの新天地に彷彿してゐる。若し自然が人を生むならば、我が北海道のエルムの原始林の中にも、大偉人大詩人が生れなければいけない。その大偉人大詩人は已に諸君の中に生れてゐるのではあるまいか。私は斯の如き大自然の中に必ずや大人物の生れることを信じて疑はないものであると云う意味の演説をした。私等はその時初めて演説と云ふものを聞いた。(…)
– 都築省三、徳川農場の事務所で [6]
徳川農場長大島鍛は、やはり移住者の1人だったが、これが青年を集めて私塾のように情熱をこめて教育指導した。農場事務所には、事務所としては不用なほど多くの青年事務員がいた。この青年は大島の薫陶を受け、今日では町の中心人物になっている。
– 徳川義親、1912年(明治45)頃の徳川農場について [7]
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書 - 徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、ISBN 4532030862、pp.85-151(初出は1963年12月)
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971