大石正幸
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大石 正幸 | |
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渾名 | |
生誕地 | 日本 石川県 |
死没地 | シンガポール チャンギー |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1918 - 1945 |
最終階級 | 憲兵大佐 |
部隊 | |
指揮 | |
戦闘 | シンガポール華僑粛清事件 |
戦功 | |
賞罰 | |
除隊後 | 1947年 英軍裁判での死刑判決により刑死 |
廟 |
大石 正幸(おおいし まさゆき)は、日本の軍人。最終階級は憲兵大佐。1941年に第2野戦憲兵隊長としてマレー作戦に参加、1942年2月、シンガポール占領後のシンガポール華僑粛清事件で市内の粛清を指揮したことで知られる。1947年4月、同事件の戦犯裁判で死刑判決を受け、同年6月にチャンギ刑務所で刑死。[1]
経歴
- 石川県出身[2][3]。
- 30期
- 1918年 歩兵少尉
- 1922年 中尉
- 1926年 憲兵中尉、京都憲兵隊付
- 1927年 金沢憲兵隊副官
- 1928年 大尉
- 1929年 難波分隊長
- 1931年 小倉分隊長
- 1932年 久留米隊付
- 1933年 福岡分隊長
- 1935年 竜山分隊長
- 1936年 少佐
- 1937年 北支派遣分隊長。通州事件で当時北支那方面軍の参謀長だった山下奉文に手腕を認められる[3]。
- 1939年 旭川隊長
- 1940年 宇都宮隊長
軍事裁判
1947年4月2日、シンガポール華僑粛清事件で死刑判決を受け[5]、同年6月26日、チャンギ刑務所で刑死[6]。
辞世の句「心には かげやどすべき ものゝなし おのずからなる さだめと思へぱ」[7]
脚注
参考文献
- 茶園 (1995) 茶園義男 茶園義男 [ シンガポール英軍法廷・華僑虐殺事件起訴詳報 ] 不二出版 1995
- 茶園 (1989) 茶園義男 茶園義男 [ BC級戦犯英軍裁判資料 ] 下 不二出版 1989
- 大西 (1977) 大西覚 [ 秘録昭南華僑粛清事件 ] 金剛出版 1977-4